西国の横綱「西の関」には、豊後の伝統と国東武士の誉れが醸されている
萱島酒造の門を入ると、蔵正面 に構える三和土には歴代の賞状が誇らしげに並び、我々を迎えてくれます。
その脇にしつらえた和洋折衷の応接室で萱島家の歴史を語ってくれるのが、蔵元四代目の萱島 須磨自(すまじ)会長です。穏やかな口調と容貌が気品を感じさせ、白眉の印象を与えます。
インタビューには、萱島 進 社長、萱島 徳(いさお)常務も同席され、家柄・系譜についての解説など、じっくり拝聴することになりました。
「太平洋戦争以前までは刀剣や甲冑、書画などを多く残していたのですが、戦後になって価値のありそうな文化財を残していると、進駐軍が乗り込んで来る恐れがあったので、私の父が処分してしまったのです。その中には、みごとな太刀が一振りありましてね。あれは、今思い出しても、本当に惜しい逸品でした」
その萱島会長の言葉は、萱島家がれっきとした武家の末裔であることを示しています。
萱島家が武士であったのは、鎌倉・室町時代から戦国末期までの約400年間。江戸初期には髻を切って、豊崎村で帰農しています。実は、萱島姓は豊後の戦国大名だった大友氏の血筋でした。
大友氏からは田原氏が分家しており、この田原氏は豊後国国東の地頭職を得ています。萱島家は国東田原氏の家老職の一人であったのです。
つまり萱島家はこの田原氏より出ており、田原氏は国東・飯塚城城主として、大友本家をしのぐ精力を保持した時代もあったのです。
萱島家は田原氏に近い関係者の一人として、力を広げました。このため、現在も国東の豊崎村や武蔵町には、萱島姓が多く残っています。
また、室町幕府前の南北朝時代、国東の武士たちは足利尊氏側につきました。建武3年(1336)いったん破れた尊氏が九州へ落ち延びた際、大友氏は助勢し、再び上洛させています。おそらくは、萱島家の先祖も加勢したのでしょう。
「私の祖父の頃、つまり明治時代までは、田原家の菩提寺に当家の墓がありました。田原家には4人の重臣がいて、その中の家老が当家の御先祖様だったようです」萱島家に伝わる家系図には、往時の当主たちの言葉が記されていると萱島会長は語ります。
「それでは、いつ頃、武士をやめたのでしょうか?」と興奮気味に筆者が訊けば、「豊臣 秀吉の朝鮮出兵の頃です。文禄元年(1592)の“文禄の役”に出征していた大友 義統が味方を見殺しにしたので、秀吉が領地を没収したのですよ」と、即座に答えが返ってきました。
大友一党である田原氏の領地も悉く取り上げられ、その直臣であった萱島家の禄は無くなり、士分を捨てねばならなかったわけです。
徳川時代になると、萱島家は地元の御意見番・まとめ役として、御上の信頼を与ります。爾来、地元・豊崎村の民衆たちと農業にいそしみ、260年間を生き抜きますが、幕末には村全体が貧窮していました。
そして、維新後の明治6年(1873)、萱島 荒吉(あらきち)が豊崎村から現在の地へ移住し、富国強兵・殖産興業の一つとして推進された免許制の酒造りを始めます。屋号は福壽屋でした。
当時、大分県内では800軒の酒屋が営み、そのほとんどが小規模で、萱島酒造も50石から100石ほどの製造量でした。
いずこの蔵元も清酒造りの技術はまだまだ未熟で、日々一喜一憂することの繰り返しだったようです。また、酒を腐らせることも頻繁で、商いの浮き沈みは激しく、毎年のように酒屋が現れては消えていきました。
そんな中で、荒吉は着実に業績を伸ばします。ただ、彼には跡取りができず、養子を迎えることになりました。この人物が、二代目・米三郎(よねさぶろう)でした。
米三郎については、会長をはじめ、社長、常務が「西の関の礎を築いた、偉大な先達」と一同に声を合わせます。事実、「西の関」の銘を決めたのは米三郎で、その意図は「西日本の代表酒」にあったそうです。ここで、しばし彼の魅力に迫ってみることにしましょう。
米三郎が当主となった明治半ば、国東地方の蔵元は25軒ほどで、萱島酒造の製造量は500石に達しています。
この躍進の裏には、米三郎と地元の国東杜氏による清酒造りの研鑽、灘の名門蔵元への出向など、身を粉にした精進がありました。また、明治40年(1907)には第1回全国品評会へ出品し、みごとに1等入賞を果たしています。
大正初期には1000石の規模となり、大正8年(1919)頃、2000石を超えました。
米三郎は商いの方法にも彼流のこだわりを持ち、現金主義に徹した堅実な商いを行いました。
当時は馬方を雇っていて、酒樽は馬に提げて遠方の小売店まで運んだのですが、先方から掛売りを申し渡された場合、酒を渡さずそのまま持って帰るように米三郎は指示していました。
運び手にとってはきつい仕事でしたが、そのこだわりが得意先に深い信頼関係、確かな品質を約束することとなり、これが「西の関」の名を地域に広めていったのです。
「とにかく一途で、酒造りのこととなると、何もかもそっちのけの人だったようです。そんな曽祖父の姿勢に、学ぶことが多々あります」と、今度は、萱島社長の口から米三郎の人となりを感じさせる逸話が語られます。
「米三郎は地元の発展にも貢献し、大分県会議員も務めたのですが、酒造りのシーズンに入ると、県議会が紛糾していても途中で杜氏へ電話をかけ、麹の温度やモロミの状態をつぶさに聞いては指示を与えていたそうです。しかし、一方では政治にも熱い情熱を傾けていました。新興成金出身の議員たちが“寄らば大樹の陰”と力ある政党に阿諛追従する中、米三郎は“強気を挫き、弱きを助ける”リベラルな人物だったそうです。また、地元の小学校に校舎を寄贈するなど、教育への貢献も惜しみませんでした」
その話しに、萱島常務が言葉をつなぎます。
「私の息子はその小学校へ通っているのですが、以前、校長先生から米三郎のことを聞かされたそうです。『君の御先祖様は、立派な人なのだよ』と諭されたらしいのですが、本人はキョトンとしていたようです(一同笑)。
ところが、そんな米三郎にも子が授からず、妻・キノの親戚から可祝(かしゅく)という養女を迎えて、婿を取ることになりました。この婿が、三代目・義信(よしのぶ)です。
義信が、65歳の米三郎とともに操業した昭和初期、国の景気は悪化し酒造業にも暗い影を落としていました。そんな中、萱島酒造に新たな光明が生まれます。
当時、米三郎は熊本県酒造研究所の技師長を務めていた野白 金一 博士に惚れ込み、親交を深めていて、有能な人材の推薦を求めていました。そして、その期待に応えるべく昭和4年(1929)に萱島酒造へ杜氏としてやって来たのが、32歳の中村 千代吉でした。 中村杜氏は職人気質な明治の男で、ゆるぎない探究心と姿勢、温和な性格を持ち、人望を集めました。この中村 千代吉の登場も「西の関」の名声を培ったと言って、過言ではないようです。
昭和14年(1939)、戦時色が濃厚となり「米穀配給統制法」が制定されると、全国の酒造業者は汲々とした商いを余儀なくされます。さらに太平洋戦争に突入すると、政府は企業整備を開始し、強制的に酒造業者の継続と廃業を決定しました。
萱島酒造は操業を許可されたにもかかわらず、昭和18年(1943)から3年間酒造りを止めています。その理由には、義信の人間性と責任感が表れていました。
東国東郡の酒造組合長を務めていた義信は、地元の蔵元たちを救うために酒造業を断念し、自社に配給される米を同業者へ貸し出したのです。
こうして、断腸の思いで苦境を乗り越えた萱島酒造は、昭和21年(1946)に再出発します。しかしながら、慢性的な食糧難により米の配給はわずかな量で、戦時中に同業者へ貸した米もなかなか返って来ず、製造量は原酒で100石ほどしかありませんでした。
義信は、五男一女の子宝に恵まれました。その長男で東京帝国大学を卒業していた須磨自(第四代会長)が、昭和23年(1948)の暮れに国東へ戻って来ます。須磨自は帳簿仕事を手始めに蔵元としての第一歩を踏み出しましたが、まだまだ経営は青息吐息の状態でした。
太平洋戦争後、進駐軍(GHQ)の施策で実施された預金封鎖と新円切り替えが経営を圧迫していました。その原因は、戦時下の3年間休業にありました。萱島酒造には現金が残っておらず、新円に換えるべき旧円が無かったのです。
さらには、財産税が課せられたことにより、その支払いのために巨額の借金を背負わねばなりませんでした。
須磨自は、弟・崇信(二男)との二人三脚で父の義信を支えながら、酒屋としての修行、商売の厳しさを体得していきます。そして、昭和29年(1954)には有限会社へ改組。この2年後に義信は63年の生涯を終え、34歳となった須磨自が萱島酒造を継承しました。
須磨自が代表者となった昭和31年(1956)は、ようやく政府が清酒普及の活動に本腰を入れ始めた頃でした。その後、神武景気・岩戸景気などによって、首都圏を中心とした市場は登り坂となります。
さらに昭和40年代に入ると、マスコミを使ったブランド効果で灘、伏見の酒ブームへと発展するわけですが、地方の蔵元である萱島酒造には、なかなか実績として現れませんでした。むしろ、ブランド酒は九州市場へもじわじわと押し寄せて来たのです。
しかし、そんなブランド酒は三増酒ばかりで、昭和初期までの吟醸造りなど忘れ去られたような状況でした。この時期に、須磨自は「西の関」としての姿勢、伝統ある蔵元の心意気を打ち出します。
祖父・米三郎や父の義信が紡いできた、造り酒屋としての理念。それは“国東の杜氏、蔵人たちが醸し続けてきた本物の酒”を守っていくことでした。
こうして造られたのが、「秘蔵酒・西の関」です。
そして、須磨自と肝胆相照らし、この渾身の美酒を誕生させたのが、杜氏の中村 千代吉とその息子・中村 繁雄でした。中村 繁雄は昭和33年(1958)萱島酒造へ入社、親子二代にわたって「西の関」を醸し、大杜氏として蔵を束ねていましたが、2009年6月に大杜氏を退任しました。
近代日本酒醸造界の第一人者として知られる東京大学名誉教授・坂口 謹一郎 博士は、「秘蔵酒・西の関」を口にして、萱島酒造に名文を贈呈しています。
あたらしき うまさけのみち
ひらかめと つくりいでましし
酒は秘蔵酒
坂口博士は須磨自の敬愛する恩師であり、母校の大先輩でもありました。その後も、博士からは「いつも君から美味しい酒をいただきますが、私の口には入らず、人に飲ませてばかりです」と最高の賛辞が届いたのです。
ひょっとすると坂口博士は、やがて訪れる「西の関」への大勲章を予感していたのでしょうか。
昭和48年(1973)、ドイツの銘醸「シュロスフォルラーツ」のオーナー・マツシュカ伯爵の長寿を祝う「世界の酒の大き酒会」が催され、日本を代表する酒の一つとして「西の関」が選ばれました。
須磨自が早期から取り組んだ、吟醸酒回帰の成果でした。そして、これをきっかけとして全国にファンが増え始め、昭和52年(1977)に刊行された冊子『ほんものの日本酒選び』では「西の横綱・西の関」の賞賛を得たのです。
こうして地酒ブーム期に全国を席巻した「西の関」は、五代目の萱島進 社長に受け継がれ、新たな時代を迎えています。その萱島進社長については、次なる「蔵主ページ」で詳しく紹介することとしましょう。
国東の伝統の酒造りをひたすら追求する、萱島酒造。
「あたらしきうまき酒のみち」は、今後も尽きることなく伸びて行くことでしょう。