”三つ葉柏”の誉れと郷土への慈愛を醸し続ける、老舗のしずく酒
今を遡ること、約260年。江戸時代まっただ中の宝暦年間(1750~1763)に、柏露酒造株式会社の遠祖は呱々の声を上げています。
当時の銘酒は「越中屋の酒」と呼ばれ、人気を博していたとのこと。長岡藩の御用商人だった山崎家が「酒舗 越中屋」として創業し、広く親しまれていたからです。
往時は、酒株を藩から購入することで酒造権を得たわけですが、金さえあれば誰かれなく支給されたのではなく、相応の家格と信用がなければ、御上は許可しませんでした。
しかも長岡は雪深く、作封地の多い土地柄。米の確保と用立ては非常に貴重で、厳しい監視の下にあったはずですから、これを原料にする造り酒屋は銘醸地だった上方の灘や伊丹の同業者のように恵まれた環境ではなかったことでしょう。
そんな中で牧野藩の御用達酒屋という山﨑屋は、地元の酒屋たちの元締め的な存在であったと推察されます。
ゆくゆく蔵主・牧野家の家紋「三つ葉柏」にちなむ酒銘を拝することなど、封建社会の江戸時代を生きた山﨑屋の当主たちは、露ほども思わなかったでしょう。
それが現実となったのは、明治15年(1882)。西洋文明が日本を席巻し、酒造りにも技術革新が持ち込まれ始めた時代です。
明治政府は科学によって酒造りを理論的に解き明かし、これを広く普及させることで酒造業を発展させ、巨額の酒税を徴収することによって国家の歳入を図る方向を打ち出したのです。
こうなると、才長けた経営者は、家業である造り酒屋を社業である組織企業へと進化させ、規模を拡大する必要があると察します。
いち早く、その行動をとった当時の山﨑屋の当主は、先見の明を備えた人物であったのでしょう。さっそく元蔵主・牧野家の酒蔵「柏屋」を譲り受け、製造石数を向上させます。また、その家紋である「三つ葉柏」を意匠として採用。酒名も「柏露」と改めたのでした。
ところが明治31年(1898)、長岡市の大火によって、山崎家は酒蔵を焼失してしまいます。その後は、細々と酒造りを続けながら昭和を向かえ、ようやく蔵王町に12,000坪の酒造場を新築するのですが、おりしも昭和18年(1943)という戦時統制令のさなか。
結局は、廃業・工場売却という窮地に陥ることになったのです。
さらに終戦の年の昭和20年(1945)、空襲によって店舗や貯蔵庫まで焼失し、戦中・戦後の10余年間は、長岡から「柏露」の酒がまったく姿を消すことになりました。
そして、ようやく酒造りが再開されたのは昭和31年(1956)。柏露酒造有限会社が設立され、現在のJR長岡駅東口の地に新工場を建設、再スタートを切ることになったのでした。
その後、同37年(1962)に株式会社に組織変更し、同49年(1974)には現在地に工場を新築移転します。さらに昭和63年(1988)には東京営業所開設、平成7年(1995)には大阪営業所開設、同10年(1998)新蔵も竣工と、戦前・戦中の悪夢を振り払うかのように発展を遂げ、5,000石を販売するまでの酒蔵へ成長したのでした。
高度経済の成長によって清酒ブームがやって来ると、全国各地の酒問屋とのパイプも太くなり、さらには地酒人気によって新潟酒ブームが追い風を起こしました。
こうして昭和50年代から平成初期にかけて、銘酒・越乃柏露は、過去最高レベルの販売石高を記録するまでに発展したのです。
そして現在、さまざまなアルコールが市場に並ぶ時代ですが、越後酒人気は依然として高く、「地酒を飲むなら、まずは新潟の酒」という声を多く聞かされます。
県下に操業する100社近い蔵元数もその証しですが、柏露酒造は、その中でも老舗としての誇りと長岡の地酒の味を、変わることなく伝えていくことでしょう。