正義の国、サムライの心、気高き会津気質に酔いしれる銘酒「榮川」
みちのくに、万朶の桜がほころぶ晩春。雪解けを告げる磐梯山から吹く薫風に、会津若松市のそこかしこでは薄紅色の吹雪が舞っています。その美しくも儚い光景は、この町に連綿と受け継がれる凛々しいサムライ文化を、訪れる人々に実感させます。
会津若松市のランドマークである「鶴ヶ城(つるがじょう)」の佇まいは、まさにその象徴でしょう。徳川幕府の親藩として23万石を領した会津藩の居城ですが、慶応4年(1868)、戊辰戦争では籠城戦を続け、薩長の新政府軍から砲撃を受けて、炎上します。その状況に、会津藩の少年兵である白虎隊氏が「お城が燃えている」と叫んで自刃した逸話は、あまりにも有名です。
1か月後、会津藩は降伏し開城。しかし、天守閣を含めて建造物の傷みは激しく、明治7年(1874)新政府の手によって、すべての城郭が解体されました。ゆえに、現在の鶴ヶ城は復元物ですが、往時の姿を髣髴させる層塔型5重5階の威容を誇ります。
「鶴」と呼ばれるにふさわしい純白の漆喰壁、重厚な瓦葺きの櫓には、国内の観光客だけでなく、復活しつつある海外からのインバウンド客の口からも感動の声が聞こえます。
そして誰もが城郭の美しさに見惚れる中、筆者は会津人の気質を矜持した一人のサムライを思い描きます。
彼の名は「松平 容保(まつだいら かたもり)」。
日本史に造詣が深い読者であれば、容保の名に、幕末の京都守護職と即答するはず。大大名の会津藩主でありながら佐幕派を代表する悲劇的な君主と言われますが、筆者の考察はちがいます。
その私見へ共感してくれるかのように、天守閣のたもとには大輪の八重桜が咲き誇っていました。
「桜の花がごとく、気高く咲きながらも潔く散ることこそ、武士の本懐」とは、名著・武士道を執筆した新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)の言葉ですが、薩長軍に敗れた会津藩、その領主である松平 容保に重ね見る読者も多いでしょう。
京都守護職の容保は、過激な尊王攘夷派を鎮圧し、御所を警備する大役。配下には、かの新選組や御陵衛士などを置いていました。現代で言えば、テロ事件を防ぐ警察庁長官に抜擢されたわけですが、当初、その役目の引き受けは難航しました。
文久2年(1862)、28歳の容保は14代将軍の徳川 家茂(とくがわ いえもち)より「折々登城し幕政の相談にあずかるよう」と命じられ、京都守護職を要請されます。しかし、病いがちな理由で数回にわたって辞退。さらに時勢から考えれば、会津藩へ討幕派の矛先が向けられるのは確実と、西郷 頼母(さいごう たのも)など会津藩の家老たちも容保を説得し、徳川宗家からの要請を断るべきだと進言します。会津若松市内に観光史跡として残っている西郷頼母の武家屋敷にも、容保は訪れていたようです。
それでも、容保の血に流れる徳川宗家への忠誠心は、ついに覚悟を決めます。
「そもそも我家には、宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども、一日も報效を忘れたことはない」との名言を残しています。
容保は、佐幕派の他藩から弱腰と批判もされましたが、それは彼の真意を理解しない浅はかな言葉でしょう。なぜなら、事ここへ及ぶまで容保は人智を尽くした行動を見せています。
万延元年(1860)に、水戸藩氏による幕府の大老・井伊直弼を暗殺する桜田門外の変が起こると、老中の久世広周、安藤信正は尾張徳川家と紀伊徳川家に、事件を引き起こした水戸徳川家の罪を問うべく出兵を請いますが、容保は猛烈に反対します。徳川宗家を支える御三家の争いなど断じてあってはならぬと説き、幕府と水戸藩との調停に努め解決したのです。将軍・徳川家茂は、容保の尽力に心から感謝しました。いわば、正義のあるべき姿、報恩を貫いた彼の精神は、今も会津若松の人々に語り継がれているのです。
恒例の会津祭りでは、松平 容保の出陣式を模したイベントも開催されています。
近代の会津若松市は教育にとても注力していますが、根本には、会津藩政時代から受け継がれる連帯性があるようです。
「ならぬことは、ならぬものです」の訓戒は、会津を描いた時代劇やドラマで必ず耳にするセリフですが、これは会津武士の生活習慣として浸透し、生きてゆく上でのルールでもありました。その躾を軸にして営まれたのが、「什(じゅう)」と呼ばれる集団でした。
什は同じ地区に暮らす藩士の子供たち10人ほどの集まりで、年長者が什長(座長)となりました。日々、什の仲間の家に集まり、什長から7つの約束事を申し渡します。
- 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ。
- 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
- 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ。
- 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
- 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
- 一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
- 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ。
最後に、ならぬことはならぬものですと付け加えますが、これらを破った者がいれば、什長は仲間の真ん中に座らせ、問いただします。もし、破ったのが事実なら、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、仲間はずれや無視など子供らしい懲罰を科しました。
つまり什は、正しく生きること、和を重んじること、義を貫くことを、子どもの頃より身にまとい、会津武士の子はこうあるべきと相互に誓い、励み合う規律だったのです。これを忠実に教わるのが、士族の学問所「日新館(にっしんかん)」でした。
日新館は英才教育を目的に、当時の上級藩士の子弟が10歳になると入学。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学びます。素読所を修了すれば講釈所(大学)への入学が認められ、数学、神道、天文学、雅楽、医学なども修得できました。
ちなみに、女子の日新館就学はできませんでしたが、会津戦争での砲術師から明治時代の教育者に転身し、同志社大学を創設した新島 襄(にいじま じょう)の妻として知られる女傑・新島 八重(にいじま やえ)は、幼い頃から什の影響を大いに受けていたと伝わっています。
グローバルな現代、女性の活躍は世界的に当然となっていますが、彼女が生きた幕末の日本ではNGでした。「女性がでしゃばるなど、もってのほか」が常識の時代。しかし八重は、会津を守るためには男も女も関係ないと、命を賭して奔走したのです。
このように、サムライ文化を今に伝える会津若松には伝統品や生活文化もしっかりと継承され、観光客を魅了しています。
戦国時代の領主であった蒲生 氏郷(がもう うじさと)が育んだ正統派600年を経る漆塗りは、かつて蒲生氏が領主であった日野(滋賀県)から木地師や塗師を呼び寄せたことに遡ります。
また、陶器の会津慶山焼は、文禄元年(1592)に氏郷が建てた黒川城(現・鶴ヶ城)の天守に黒瓦をふくために肥前(唐津市)から陶工を呼んだことが始まりです。どちらも海外から注目され、高級芸術品と言っても過言ではありません。そんな多彩な伝統工芸品を扱う市内の七日町界隈は、インバウンド客のお目当てにもなっているようです。
いよいよコロナパンデミックも去り、今年からは、待望の会津祭りが秋には再開。ますます会津若松のサムライ文化を楽しむゲストたちが、押し寄せることでしょう。
その人々を待っているのが、気高き会津気質に酔いしれる銘酒「榮川」。
いざ、うまし会津の酒物語を始めることにしましょう。