革新の連続から生まれる、純米蔵宣言とマルチブランド政策
東京・六本木にある「SAKE SHOP福光屋 東京ミッドタウン店」
あたかもニューヨークのブティックを思わせるような洗練された空間の中に、個性的な酒ボトルや器が並んでいます。
瑠璃色のボトルに見惚れる女性、カウンターBARでグラッパーグラスをかたむけるカップル……そこは、これまでの日本酒イメージとかけ離れた、上質のセンスとスタイルでゲストを迎えてくれます。
“喧騒を忘れさせる、アートな日本酒セラー”と言ったところでしょうか。
他にも、赤坂にあるシックな日本料理店「花楽」など、福光屋はプレミアムな日本酒シーンを創造しています。
「日本酒に限らず、今はあらゆる商品やその情報がいつでも、どこででも手に入る時代ですね。ですから、その中から何を選ぶかは、私たちのその日の状況や、その時の気持ちによって、千差万別になっています。
つまりは、優れた“モノ”としての価値とともに、どれだけ人の知性と心を揺さぶる“コト”の要素も持っているかが大事になります。これからは、ますますそんな時代になっていくでしょう」
味わいのある詩を朗読するように、穏やかな口調と面差しで語ってくれるのが、福光屋の十三代目・福光 松太郎 社長です。
福光 社長は、数ある蔵元の中でも、独自のマーケティングを実践する経営者として知られています。ゆえに、福光屋の名がトレンドビジネスの話題に登場することも多く、その特筆的な戦略をリードしてきたのが、福光 社長なのです。
福光 社長は、昭和25年(1950)生まれ。父の福光 博 氏は先代の名をもらって「松太郎」と命名したそうです。
金沢大学付属高校から慶応義塾大学経済学部へ入学し、卒業後は大手流通企業に勤務。3年後、家業へ入るべく国税庁醸造試験場で学びますが、その後、さらに母校の慶応義塾ビジネススクールで経営学に励みます。
ここからしても、福光 社長の異才と非凡さが窺えます。
「いやいや、そんなにお褒め頂くようなことじゃないんです。でも、ビジネススクールの頃は洋酒ブームで、大企業から学びに来ていた人に『日本酒なんていずれ無くなるだろうに、ここへ来ても無駄なんじゃないの?』と侮辱されて、大いに発奮して勉強しましたねぇ(笑)」
帰沢した松太郎氏は福光屋の取締役経営本部長を任され、昭和60年(1985)には、弱冠35歳で代表取締役社長に就任しています。
若き日に一流のビジネス学を修め、先代の下で帝王学を学んできた福光 社長。たおやかな雰囲気に漂うオーラもさながらですが、筆者は、取材前に知った福光語録の一つに惹かれていました。
「伝統は、革新の連続である」
当たり前と取れる言葉ですが、幾度か口ずさんでみると、これほど“言い得て妙”な表現もない気がします。
福光 社長の30年間の経営革新の日々には、このフレーズが絶えず流れていました。
「伝統は、“続いている”状態を言います。しかし、何かが続くためには、絶えず革新していなければいけない。いつの時代も、その時々にどう適合するかという行為がなされていないものは、淘汰され、消滅していますね。それは、造り酒屋だけのことではなく、国家でも、世の中の変化によって栄枯盛衰を繰り返すわけです。どんな存在でも革新を続けていなければ、先に残っていくはずはありません。ですから、伝統と革新は、常に背中合わせのもの。二律背反の、密接な関係にあるわけです」
いきなり核心を突くような切れ味鋭い答えですが、福光 社長は淡々として続けます。
「私の場合、“父がやってきた福光屋の商品を、すべて壊してしまいなさい”と言うことでした。代が変われば、お客様も商品も変わってくる。お取引先の担当者だって、時代とともに変わる。だから、先代のやり方や商品を引き継いだままでは、通 用しなくなる。平たく言えば、“自分たちの時代を、一生懸命やれ”という叱咤激励ですね。先代にもらうのではなく、一度すべてゼロにして、自分が最初から始める気でないとダメだと、先祖は代々の後継者に教えてきたのでしょう」
とは言え、お客様がすべて変わったり、いきなり無くなったりすることはないだろうと、福光 社長は当初戸惑っていたそうです。しかし、今日に至って振り返ってみると、先代の時代の商品はすっかり消えて、福光 社長の開発した新しいブランドがさまざまに並んでいるのです。
現在の福光屋の日本酒を見てみると、それぞれが、コンセプト、品質、ラベル、ボトルからパッケージまで、吟味してこだわり抜いた“工芸作品”のようで、金沢の蔵元らしさを感じます。
ふと気づいたことは、従来の主銘柄であった福正宗の名がそれぞれの商品に見えないこと。つまり、「風よ 水よ 人よ」「加賀鳶」「黒帯」「鏡花」「瑞秀(みずほ)」「百々登勢(ももとせ)」などの銘柄が、それぞれ独立した他社のブランドと受け取れるのです。
例えば「黒帯」は、燗・冷やともにオススメで、酒を酒として楽しむことができる堂々とした日本酒を目指しています。いわば、ツウを満喫させる酒がコンセプト。骨太なラベルやデザインに、うっすらと湯気の立ち昇るぬ る燗の酒を想像してしまいます。 一方、金沢の文豪・泉 鏡花の名を付けた「鏡花」は、食事のバリエーションを気にせず幅広く楽しめる低アルコール酒。日本酒ビギナーや飲みなれていない人たちへのコーディネーター的存在で、シンプルで気品のあるデザインも親しみやすい雰囲気です。
これらは、福光 社長が提唱してきた「マルチブランド政策」によって、企画開発されてきました。
「おっしゃるように、当社のブランドはそれぞれが別企業の商品のようになっていて、酒造メーカーにありがちな主銘柄の下に連なるラインナップではありません。むしろ私は、ブランド別に企業化したかったのですが、そう簡単に、酒造免許は許可されません。ですから、イメージとしては、福光屋の中に小さなこだわりの蔵元が数社存在していると思って下さればけっこうです。ブランドごとに原料の調達、酒の造り方、商品企画、マーケティング、プロモーションと、それぞれ独立した事業であるべきなのです」
「加賀鳶」を好きなお客様だけど「黒帯」は知らない、あるいは知っていても福光屋の商品とは思わなかった方もいるが、それで良い。ちがうブランドだからこそ、新たなファンになってくれる。そこがマルチブランド政策の成果だと、福光 社長は語ります。
マルチブランド政策の起点となったのは、平成元年(1988)の級別廃止でした。
この3年前、すでに福光 社長は、料理酒を除くすべての福光屋の酒を本醸造以上の製品とする改革に踏み切っていました。
福光社長は、買い手に不透明な級別税制が取り払われ、これからは消費者主義の本物志向の需要がやって来ることを察知していました。それは、かつて父や祖父が持っていた慧眼を髣髴とさせます。
「そんな変化の中で、特定名称酒が設けられました。でも、それも曖昧模糊としていた。じゃあアルコールを添加した酒というのは、どんなポジションなのか。本物の日本酒とはどんな酒であるべきなのかを模索している内、戦中・戦後のアル添酒の変遷と戦前までの日本酒を探求する日々が続きました。その結果 、平成13年(2001)に当社の全商品を純米酒化したのです。しかし、コスト面 で約5割アップしますので、容易なことではなく、毎年少しずつ革新を重ねました」
福光 社長によると、戦前まではいずこの酒蔵も純米酒を造り、酒のグレードごとに銘柄が複数あって、味も酒質もはっきりと分かれていたそうです。
つまり、消費者志向で選びやすかったのです。
確かに、戦後のアル添酒は米も酒もない時代の代用品で、その延長線上に立った税制が40年間存続していたことは余りにも刹那的で、筆者も大いに疑問を感じるところです。
また、当時のインフラの体制をなしたテレビ・ラジオなどマスコミによる広告宣伝力が、先述の不透明な税制を覆い隠していたことも否めません。灘や伏見の銘柄が喧伝される陰で、本来の日本酒は途切れ、埋もれたままになっていたわけです。
「マルチブランドを始めた頃、福正宗のラベルが見えなくなって、別々のブランド名しか露出しないことをお客様にとがめられました。『どうして、そんな紛らわしいことをするんだ!』と古いお馴染み様からはお叱りを受けましたが、一つの銘柄の中で選択されていては、いつまでも過去の級別時代のブランドイメージから抜けられないと思いました。自信を持って新商品を開発しても、アル添酒時代のイメージと味わいをお客様は無意識に記憶していて、それが購買心理につながってしまうわけです。そこを見落としてしまうのは、大変危険なことでした」
なるほど、この福光 社長の言葉も、“伝統は、革新の連続である”の上に立脚しているようです。
「それと、もう一つ。マルチブランド政策には、“直接にお客様との交流を続ける”ことが重要なのです。SAKE SHOP福光屋や赤坂の“花楽”もそうですが、お客様の声にいつも耳を傾けながら、評価や問題を分析しなければいけない。そして、インターネットやパブリシティーを上手に活用することも大事です。逆に言えば、それらの新しいメディアのお蔭で、プロモーションコスト的にも、マルチブランドは可能になったと言えるでしょう」
つまり、福光社長の言う図式は、こうです。
「黒帯」「加賀鳶」は、マスコミ広告を一切しなかった商品。これが、1999年に初の直営店としてオープンした銀座のshopで話題をを呼び、それをパブリシティーが取材し、コストパフォーマンスの高い広報が生まれるわけです。
さらに、都内3店舗の直営店の常連となったお客様が、金沢へやって来る。金沢でしか売っていない福正宗ブランドを手に入れて、また話題にしてくれる。これが東京の仲間に知られて、銀座へ足を運ぶという理想的な口コミ効果もあるそうです。
「マルチブランド政策と旧来のブランド戦略の違いは、商品開発に表れました。一つの銘柄の下にある限り、大吟醸、純米吟醸など、酒の造り方別のアイテムになってしまうわけです。マルチブランドにできない理由は、基本を純米酒オンリーにしないからです。じゃあ、どうして純米酒だけにできないかと言えば、アルコールを添加した商品が切れてしまっては、営業できなくなるかも知れない不安が蔵元にあるからです。当社でも、最初はこの意識改革に腐心しました。でも、お客様の声を聞くと、今や本物を求める人たちの日本酒ニーズは、純米酒志向になっていると思いますよ」
純米蔵宣言には、何よりまず社員の意識を改革することが大事だったと、福光 社長は振り返ります。
訊ねるごとに、見識の深さと柔軟な思考が胸を打ってくる福光 社長の持論。
インタビューしたいテーマはまだまだ尽きませんが、最後に、これからの日本酒のあり方について提言して頂きましょう。
「日本酒は、価値の分かる日本のお客様に嗜んで頂き、世界の上流のお客様にも飲んでもらいたいと思います。そのためには、料理と日本酒を楽しむ価値観を向上させるために、もっと工夫する必要がありますね。日本では、男性中心の“雄々しき”時代は終わって、女性の社会進出とともに繊細なライフスタイルが求められ、嗜好に上質感が生まれてきました。つまり、酒だけをグビッと飲むのではなく、いろいろな料理のホスト役をこなす食中酒の時代なのです。醸造酒ですから、ワインと同様、そうあるべきでしょう」
酒を飲むのは、本来、誰かと食卓を囲むことが動機である。美味しい食事で会話が弾めば、おのずと酒も進む。ヨーロッパでも、アジアでも、それは古来からの常で、日本も昔はそうだった。それが、日本では男社会=清酒を鼓舞する時代が続いて、食中酒としての価値は薄れてしまったと福光 社長は言います。
「当社の酒は食とともに、もっと言えば、器や空間とも調和しながら、上質の志向や感性をお持ちの方々に選んで頂けるブランドを手がけていきます。日本の格差社会というのは、これからも続くでしょうから、そこにポジションを置くことで、日本酒の価値を引き上げていきたいと思います」
なるほど、その上での福光屋スタイルとはいかに?
「当社のブランドエクィティ(資産)は何かと申しますと、“発酵力”ですね。我が社にしかない創造力であり、技術力です。酒だけでなく、薬品や化粧品、食品も作れます。最近は、そんな新しい商品ジャンルの研究体制も創っています」
マルチブランド政策が確立しつつある今、発酵力という酒蔵本来の資産の再編集が必要だと語る福光 社長。次なる福光屋のマーケティングはどんな展開を見せるのか、やはり目が離せないようです。