遥かな遠祖は楠 正成の郎党、三国街道の趨勢とともに生きた”居飲酒屋”
白瀧酒造株式会社の玄関前には、戦国時代から江戸幕末の頃まで関東地方への往来を支えた旧・三国街道が延びています。
今から約150年ほど前、この街道沿いで蔵元・湊屋 藤助(みなとや とうすけ)は、旅人や馬子たちを客にして“居飲酒屋(いのみざかや)”を営んでいました。
「当社の創業は安政2年(1855)、これは初代の湊屋 藤助が没した年なのです。残念ながら、それ以前の明確な資料・文献は残っておりませんが、“湊屋”が当家の屋号で、兵庫県神戸市の湊川神社にご縁があるようです。また、湊屋の酒造りは本家の河内屋(かわちや)から任されたものでした。この河内屋は、湯沢宿の荷役馬を束ねる豪家だったのです。つまりは河内屋の扱った旅客や馬子が、湊屋の酒を飲んでいたわけです。そんな史実から察するところ、当家の先祖は南北朝時代の武将・楠 正成(くすのき まさしげ/1294~1336)公に仕えていた武士のようです」
白瀧酒造会長の高橋 敏(さとし)会長は、そう解説してくれました。
なるほど、神戸市の湊川神社には楠 正成の御霊が祀られています。また、正成の生誕地は河内国千早赤阪(かわちこくちはやあかさか)ですから、本家の屋号・河内屋についても頷けます。
宿敵・足利 尊氏(あしかが たかうじ/1305~1358)軍との湊川の戦いに敗れ、船に乗り瀬戸内海から日本海へ逃れた……。湊屋のルーツをそう推論したのは、高橋 会長の父親で五代目当主の高橋 敬一郎(けいいちろう)氏でした。
敬一郎氏は戦前に東京帝国大学を卒業した英才ですが、入試勉強の際に、近隣の塩沢町にある古寺・雲洞庵(うんとあん)へ篭っていました。雲洞庵は奈良時代の荘園領主・藤原 房前(ふじわら ふささき/681~737)によって建立された尼寺で、鎌倉期以後は曹洞宗の禅寺として上杉家に崇拝された越州随一の名刹です。
実は、楠 正成は幼い子どもたちを雲洞庵に預けていました。雲洞庵の宝物殿には、楠 正成の遺言状が保管されています。また、雲洞庵の近辺には南木(なんき)姓の人々が多く、この「南」と「木」を合わせれば「楠」になるわけです。
おそらくは追っ手を逃れた楠一党の人々が、この地に住みついたのでしょう。
さて、話しを酒蔵へ戻しましょう。
幕末の頃、湯沢宿は3箇所の渓谷(沢)に囲まれていました。湊屋の立つ地は「谷地(やち)」と呼ばれ、すべての沢水が流れ落ちる場所でした。
二代目・湊屋 藤三郎(とうざぶろう)の酒屋はますます繁盛し、門前市を成すほどの賑わいだったようです。三国街道を往来する馬子たちは、日が暮れると湊屋の暖簾をくぐり、身欠きニシンの煮しめを肴にして晩酌を傾けました。
かつて店先には、幹のくびれた欅の木が植わっていたそうです。足繁く通う馬子たちが、手綱を結わえたためでした。
明治元年(1868)、東海道を皮切りに全国の宿駅制が廃止されると、三国街道でも関所や奉行所の監視が無くなり、往来と物流が自由化されました。これにより湊屋の酒は馬の背に揺られながら上州(群馬県)へ持ち込まれ、ついには高崎支店を開業するまでになったのです。この頃の銘柄は「湊川(みなとがわ)」でした。
ところが急速な鉄道延伸によって、明治21年(1888)信越線が開通。街道から人波が消え去り、道沿いの宿場は徐々に衰退していきました。当然ながら酒の需要も激減し、湊屋も窮地に陥っていましたが、これを救ったのが、苗字を高橋と名乗った三代目・藤三郎でした。
三代目・高橋 藤三郎は明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、特需に応えるべく清酒の品質向上へ取り組みました。越後の蔵人の里である寺泊町(てらどまりまち)野積(のづみ)の地から杜氏を招き、泉流の酒造りを導入したのです。
この時に出来上がった清酒を、従来の湊川とは別格に扱い「白瀧(しらたき)」と銘じました。“白”は湯沢の雪を意味し、“瀧”は湊屋へ流れ込む沢にあった「不動の瀧」に由来しています。新たに白瀧醸造本舗の看板を掲げた三代目・藤 三郎は湯沢の村長も勤め、地元の文明化にも注力しました。
大正10年(1921)、白瀧が脚光を浴びる出来事が起こります。
上越線の清水トンネル工事や発電所建設によって、2,000人を超える労働者家族が湯沢へ移入。必然、酒の需要は高まりました。この時の蔵主は、四代目・藤三郎。父親同様に精進の人物で、飽くなき品質向上に努めています。
今日の白瀧酒造の高品質は、この四代目・藤三郎によって確立されたそうです。彼は、国税局指導員の小森 咸吉(こもり かんきち)の下、野積杜氏の青木 民治(あおき たみじ)と努力を重ね、昭和13年(1944)の全国清酒品評会で名誉賞を授かったのです。
また四代目・藤三郎は、ランプ生活だった湯沢村の電灯化を推進。当時の逓信大臣・犬養 毅と面談し、村内の電線敷設についても掛け合っています。
太平洋戦争直後は米不足のため、白瀧醸造本舗の製造量は1,000石にも満たないありさま。その後の白瀧の復興を担うのは、五代目・敬一郎(けいいちろう)でした。
敬一郎は東京帝国大学を卒業し、海軍大尉となって飛行機を設計していました。そのため、終戦後は学者としての人生を望んでいましたが、家業の窮地にやむなく帰省。昭和26年(1967)に白瀧酒造株式会社へと改組します。
尉官であった彼は己に厳しく、また技術革新には並々ならぬこだわりを持っていました。機械設備の改良は専門分野でしたが、それにもまして、まずは人づくりが肝心と23歳だった川合 高明(かわい こうめい)を杜氏に抜擢。若い蔵人の養成に取りかかりました。
昭和40年代に入ると、清酒ブームとともに白瀧酒造の酒は関東近辺で人気を博します。
元来、湯沢界隈は人口が少なく、地元消費は頭打ちとなってきたため、まだ灘・伏見メーカーの手が届いていない関東周辺でのシェアーを高めたのです。
また、核家族化とファミリー志向の高まりから、冬の湯沢にスキーブームが到来し、都会からやって来る若者に地酒が好まれるようになりました。
そして昭和41年(1966)、銘酒・白瀧は関東信越支部清酒品評会 優等首席の座を獲得。越後の丁寧な清酒として認知され、昭和50年代以後の地酒ブームに乗って、関東圏でのマーケットを拡大していきました。この後、川合 高明は“現代の名工”に選ばれています。
六代目の高橋 敏 会長は、父親・敬一郎氏のエピソードを語ってくれました。「私は昭和50年(1975)に、23歳で白瀧酒造へ戻りました。地酒ブームの中で、さらに高品質化を目指して設備導入を図りましたが、父はとにかくドイツ製品にこだわるのです。第二次大戦中、メッサーシュミットというドイツの戦闘機がありましたが、それを作ったメーカーの機械でなければ納得しないのですよ。正直言って、財務を任された私は大変でした。しかし、最高の技術革新を成し得た生涯に、本人は満足しているようです。ただ、私は子どもの頃、父が苦手でした。何しろ青年将校、厳格な父親でしたね。悪さをすれば鉄拳制裁、時には庭の池に投げ込まれたりもしました(笑)」
また、酒造組合中央会や地元政界へも協力し、越後出身の田中 角栄 総理大臣とは“金襴の友”の間柄でした。
そして平成時代、高橋 敏 会長のリーダーシップによって銘酒「上善如水」が大ブレイク。川合 高明の弟子である高綱 強(たかつな つよし)杜氏が醸した新しい日本酒は、一躍スターダムに登りつめたのです。
現在、首都圏を含めた県外で95%、新潟県内では5%と、地酒メーカーとしては驚くべき売り上げ比率となっていますが、その秘訣については弱冠29歳にして七代目を継いだ若きトップ・高橋 晋太郎 社長に、蔵主紹介ページでじっくりと訊ねてみましょう。
時の流れ、人の流れ、酒の流れ……三国街道とともに育った一軒の居飲酒屋は、日本酒業界に新しいうねりを作り続ける酒造メーカーへ発展しました。
その理念「上善水の如し」は、湊屋代々の血脈の中に、これからも流れ続けることでしょう。