灘の生一本「白鷹」と、その命を育む「宮水」の町・西宮をめぐる
京阪神の屋根と呼ばれる六甲山の麓は温暖な瀬戸内式気候に育まれ、国盗りの時代から豊かな穀倉地帯として栄えました。
そのお蔭もあって、現代は人口が過密する大都市が連なります。
ここ西宮市もその一つで、阪神地区の経済を支える基盤の町として、いくつもの大手企業がひしめいています。
西宮は「十日戎」で有名な西宮神社の門前町として古くから発展し、江戸時代には、酒造りの中心地としても繁栄してきました。
明治以降は、いわゆる灘五郷(今津・西宮・魚崎・御影・西)を構成する一つに数えられるようになり、いまも神社の南一帯には、大手の酒造会社が軒を連ね、その先には、かつて酒を積んだ樽廻船で賑わった西宮港が広がりをみせています。
上方の美酒=「下り酒」として江戸時代に大ブレイクする灘の酒ですが、実際に人気を取るようになったのは、同じ兵庫の伊丹酒や京都の伏見酒よりも後でした。そして灘の酒を、江戸八百八町の庶民がこぞって求めるようになったのは、17世紀末の元禄時代以後。その理由は、酒樽が廻船によって運ばれたことにあります。
灘の海辺には、小型の帆舟が連なり、これをいったん大坂湾の千石船に積み込んでから送るわけですが、海から離れた伊丹酒よりも手早く運べることに利があったわけです。
こうして西宮の地は、天下に鳴り響く“銘醸地・灘”の主要生産地として夙に知られ、その清酒は、灘五郷全体の4割にも達しています。
では、なぜこの地に酒造りが発達したのかといいますと、最も肝心な理由は、良質の水“宮水(みやみず)”が発見されたためでしょう。
宮水は、西宮の地下を流れる水脈で、酒造用水として使用されています。
しかし、どこを掘っても宮水が得られるというものではなく、海岸地帯のごく一部に限って存在する伏流水をいいます。つまり、六甲山系に降った雨が地元を流れる夙川の伏流水となり、西宮神社近くの一帯で湧出する水のことをいうのです。また、宮水の滞水層は地下4m余りに限られます。海水よりやや低いところで、地下5.5mより深くなると、たちまち鉄分が増加し、酒造用水としては不適格になるのですから、きわめて微妙な層を形成しているわけです。
ちなみに平成9年(1997)、ここ西宮市に操業する酒造会社は、共同して「宮水庭園」を修景整備し、観光スポットとしても注目を集めています。
また、西宮も含めた灘一帯は、かつて大坂を天下の台所として繁栄させた豊臣秀吉が、天領として目をつけていた肥沃な土地でした。つまりは、温暖な気候の下で稲作が確保できると秀吉は読んでいたのです。
確かに、猪名川、夙川など幾筋もの河川が下る往時の平野には、そこかしこに水車が回って、遥か彼方まで青々とした水田が広がっていたと記録にあります。また六甲山系の周辺は、清冽な沢水と燦々と降り注ぐ陽射しに恵まれ、そこに発生する朝夕の寒暖差が上質の米を育んだのです。
この好条件が後世になって、日本酒の酒造好適米としてひと際輝く「山田錦」を生み出したのです。
実は、そのパイオニアとして酒造業界に名を残している人物が、今回の訪問蔵元「白鷹」の創業者・辰馬悦蔵なのです。
白鷹から宮水地帯を南に下ると、そこはもう海です。
かつて樽廻船で賑わった港ですが、現在では色とりどりのヨットが帆影を浮かべ、1300隻を係留できる日本有数の「新西宮ヨットハーバー」になっています。このクラブハウスには、日本人で初めてヨットの単独太平洋横断をなしとげた堀江謙一氏の愛艇も展示されています。
西宮はまた、歴史の町でもあります。縄文時代の矢じりが出土したり、弥生時代の銅戈(どうか・祭りの道具)や銅鐸(どうたく・祭器または楽器)も発見されていますが、「(財)辰馬考古資料館」に所蔵される銅鐸は質量 ともに水準を抜き、土器・土偶・銅鏡など、重要文化財の数は20を超えています。
ここには南画家・富岡鉄斎(1836~1924)の作品群も集められ、春・夏・秋と年3回にわたり展示会を催しています。
この辰馬考古資料館の設立者は、白鷹の三代目・辰馬 悦蔵氏(1892~1980)です。
京都帝国大学で考古学に没頭し、家業を継いでからも、私財を投じてこれらのコレクションを収集、保護したのです。
酒造業と文化人類学の双方で西宮に貢献し続ける灘の名酒・白鷹株式会社。その酒造りをとくと拝見することにしましょう。