麗しき酒の母なる水、そのかがよいと城下町の風情に酔いしれる「大垣」
滋賀県から岐阜県へ入ると、深い山懐はしだいに濃い緑を帯びていきます。大垣市はそんな風土の中に開けた、美しい街並みの城下町です。
そして、県境に聳える伊吹山からは「伊吹おろし」と呼ばれる西風が吹き、春と秋は穏やかな気候に恵まれます。しかし、夏場は盆地特有の高温多湿、日中は25~30度以上となり、時として40度近くになることもあるそうです。
また雨はもっぱら多く、そのため長良川、揖斐川などの一級河川を含め15本もの河川を従えています。
町のそこかしこには、これらの川の伏流水から湧く泉があり、大垣は古くから「名水の都」の名で親しまれてきました。
満々と水を自噴する井戸や池は澄みわたり、思わずノドを潤してみたくもなります。
こう聞けば、今回の訪問蔵元・株式会社三輪酒造が、清冽な天然水の恩恵に与る蔵元であることを容易に想像できるでしょう。
大垣市のシンボルと言えば、日本の歴史に名を刻む「大垣城」でしょう。重厚な白壁の櫓や城郭が建てられたのは、明応9年(1500)とも天文4年(1535)とも言われます。
この地は西美濃の要所であったことから、天文13年(1544)織田信秀が入城して以来、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐し、天下を統一した天正18年(1590)までに、氏家直元、池田恒興、羽柴秀勝(豊臣秀吉の養子)などの8氏がめまぐるしく交代しました。
その凛然とした姿が歴史の表舞台に登場するのは、慶長5年(1600)。この町からほど近い、関ヶ原合戦でのことでした。
西軍の総大将・石田三成は、ここ大垣城に本拠を構えて徳川家康を迎え打たんとし、その名が天下に知れわたったのです。
江戸時代に入ると戸田10万石の居城となり、以来、戸田大垣藩は西美濃に君臨。明治の藩籍奉還までの230余年を、太平の世とともに歩んだのでした。
その大垣城を抱え込むように外堀水門川が流れ、その水面には錦鯉が群遊しています。鯉たちの艶やかな色彩も、実は、大垣の良質の水が際立たせているそうです。
近年は、水圧の後退によって、町をめぐる大半の湧水はポンプアップされる時代となってしまいましたが、それでも「加賀野八幡神社の井戸」だけは、今なお清らかな地下水を滔々と流出し、県の名水にも選定され、大垣を訪れる人々を惹きつけてやみません。
さて、大垣にゆかりのある人物を探ってみると、俳聖・芭蕉の名が見つかりました。彼は、みちのくから岐阜までを行脚した「奥の細道」のむすびの地として、この大垣に辿り着いています。
蛤の ふたみに別 行秋そ
芭蕉の詠んだ句の一つですが、彼は大垣から桑名(現在の三重県桑名市)へ向かいました。名物「桑名の焼き蛤」を頷けると、旅情あふれる一句です。
また大垣には、忘れてならない人物がもう一人います。
幕末から明治にかけて活躍した、大垣藩家老・小原鉄心(1817~1872)です。
維新回天の立役者となった偉人たちとの交流も多く、明治新政府の参与としても活躍した人物で、城北の地に別荘を設け、幾多の勤王の志士や文人墨客たちと天下国家を論じ、茶会なども開いたと伝わっています。
現在、船町・全昌寺に移築されている大醒は、この別荘の一棟であり、和風と唐様式を巧みにとりいれた珍しい建物だとされています。
ところで、小原鉄心は、大垣きっての酒豪としても名を馳せていました。そんな彼の愛した美酒。それが、今回紹介する株式会社三輪酒造の醸した酒でした。
大垣藩御用達のこの酒蔵は、天保8年(1837)の創業。爾来、171年後の今日も、往時のままに揖斐川の伏流水を使って、酒銘「道三」「白川郷」として平成の世にも親しまれています。
ゆかしき水の文化に大垣……その名水のしずくから命を育んだ、地の酒の物語をじっくりと拝見することにしましょう。