播磨の酒造から世界へ、一粒の力が醸す至極の個性を味わう
取材陣が姫路に降り立ったのは8月のはじめ、瀬戸内海気候特有の凪の影響か太陽がアスファルトをじりじりと焼きます。
姫路は、播磨平野のほぼ中央に位置し、北は標高1000m以下の山並みが連なり、南は瀬戸内海に面する温暖な地域です。
西国街道と但馬・因幡・出雲の街道が結節する交通の要所として栄えてきました。
姫路の歴史は古く、大化の改新後に播磨国の国府が置かれ、播磨国の中心として栄えます。
聖武天皇の時代には国分寺が立てられ、今も残る広峯神社や書写山円教寺などの古刹もこの時代に創建されました。
中世以降は豪族赤松氏によって収められた播磨国。
室町時代には姫山に築かれた砦を改築し、本格的な城を築きます。これが後の姫路城となるのです。
姫路といえば豊臣秀吉が出世の足がかりとした地としても有名です。
織田家の中国方面攻略を任された秀吉は、同地で黒田 官兵衛なる人物を迎え、大きく飛躍するのです。
戦国時代に入り、内紛により衰退する赤松氏。
赤松氏の家臣であった小寺 政職は、いく度かの小競り合いを制し播州平野を中心に独立します。
風雲急を告げる時代、西からは西国第一の毛利氏が、東からは尾張・岐阜から天下布武を唱える織田信長が迫る中、小寺氏に仕える家老、黒田 官兵衛は織田信長の才能を高く評価、信長への臣従を勧め、長男の黒田長政を質として信長の元へと送ります。
官兵衛は自らの居城、西国攻略の要所として姫路城を秀吉に提供し、秀吉の参謀として活躍するようになるのです。
鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めと城の弱点を見抜いた戦略で西国最大の敵毛利氏を追い詰めました。
しかし、天正10年6月2日、安土より秀吉の援軍に駆けつけるため京に宿泊する信長を、家臣明智 光秀が襲撃します。
信長は本能寺に没し、嫡男信忠も二条御所にて自刃。
6月3日、備中高松城で水攻めをしていた秀吉の元に信長の悲報が届きます。
急遽毛利との和睦を取りまとめた秀吉は6月6日毛利軍が引き払ったのを見届け、軍を返し始めました。
摂津の武将、中川清秀・高山右近・池田恒興らを味方につけ、四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流、彼らを率い京へと向かい、13日山崎の戦いにて光秀を破ったのです。
信長亡き後、天下の第一人者となった秀吉は信忠の遺子三法師をたて、宿敵柴田勝家と対立。
これを破り、天下人へと上り詰めるのです。
秀吉没後、徳川の天下になると関が原の合戦にて功を挙げた池田輝政が播磨国姫路藩の藩主となり、姫路城を現在残る形に大改修したのです。
現在の姫路城には、当時建造された天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財、世界遺産にも登録されています。
そして姫路といえば、秋の祭りも楽しみのひとつ。
「日本三大けんか祭り」のひとつ『灘のけんか祭り』では松原八幡神社の周辺7地区の屋台(大型の神輿の一種)および3台の神輿を激しくぶつけ合うのです。
そのほかにも提灯祭り、大塩の獅子舞など、10月は休む間もない姫路っこたち。
この熱気とパワーが、見ている我々の体にもしみこみます。
また、姫路の珍味といえば『いかなごの釘煮』。佃煮の一種で、イカナゴを醤油・みりん・砂糖・しょうがなどで甘辛く炊き上げた郷土料理。煮る際に箸でかき混ぜると、イカナゴが崩れ団子状にまるまってしまうので、大釜を振るなどしてかき混ぜるのだとか。炊き上がったイカナゴは茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘のように見えることが『釘煮』と呼ばれる由来とか。
瀬戸内海であがったイカナゴの幼魚は鮮度が落ちないうちに釜揚げされ、店頭に並びます。春先になると各家庭でイカナゴを炊く光景が見られます。
姫路より因幡街道を車で西北に進み、ヤヱガキ酒造のある林田町へ。
古くは因幡街道沿いの宿場町として栄え、林田藩建部家一万石の城下町でした。
建部家は外様大名ながら明治維新まで10代、250年あまり林田藩を治めました。
7代政賢は藩士子弟の教育に力を注ぎ、藩校・敬業館を創設、9代政和の頃になると藩校振興のため、講師に漢詩人・河野鉄兜を迎えます。彼の教える尊皇攘夷の志は藩に根付き、その後の明治維新では新政府側に与し、姫路藩の征伐に貢献するのです。
この林田の地、林田川のほとりに、銘酒を醸す蔵元があります。
林田藩より酒造株を拝領し、藩校講師・河野鉄兜ともゆかりのあるこの蔵元は、14代続く老舗蔵。
古くは諸白を醸し、播州の一蔵元として栄えました。
昭和になり、播州の酒蔵から世界の酒造メーカーへ、搾りつづけた一粒の力があいなって至極の雫を醸すのです。
今回は、この林田の銘蔵元を訪ねよう。