厚狭川のほとり・寝太郎の街で醸す、長州魂の乾坤のしずく
松嶽山から吹き降ろす風が厚狭川の水面を揺らし、映る朝日をまぶしく照らす、そんな朝日を拝むことから酒造りの季節の朝ははじまります。
山陽新幹線、厚狭駅を降り、東へと歩を進めれば、旧山陽道。
古くは奈良時代から交通の要所として栄えた厚狭は、現在も造り酒屋や手作りしょうゆのお店などレトロな街並みが残ります。
街道沿いを進むと、今回訪問する永山酒造合名会社の趣のある蔵が見えてきます。
寒空のなか、街道に香る酵母の匂いに旨酒への期待がいやがおうにも高まります。
山口県の歴史を語る上で欠かせないのが長州藩。
安芸の国人領主であった毛利元就は、尼子氏・大内氏を滅ぼし中国地方全土120万石を支配します。
元就の孫、輝元は関が原の合戦では西軍の大将として参戦するも敗北しました。
敗北した毛利輝元は隠居、家督を秀就に譲り、所領を周防・長門2カ国の37万石に大減封されてしまいます。
これが長州藩のはじまりでもあり、倒幕への歴史の幕開けでもありました。
幕末の長州藩は倒幕運動の中心として、日本の歴史を大きく動かしたのです。
攘夷を掲げる長州藩は、関門海峡を封鎖し欧米各国の船を砲撃、これに対する報復活動として米仏蘭英の四国による連合艦隊の攻撃を受け、下関の砲台は壊滅させられた。
この和議交渉を任されたのが当時24歳の高杉晋作だった。
長門国萩城下菊屋横丁、現在の山口県萩市に毛利元就の代より使える長州藩士の長男として生まれた晋作は、明倫館、松下村塾、昌平坂学問所と名だたる学校で学んだ晋作は文久2年(1862年)上海へと留学。
見聞を広めた晋作は帰国後、藩政の中心として木戸孝允や久坂玄瑞らとともに尊王攘夷を推し進めた。
文久4年(1864年)自らが結成した、身分にとらわれず集めた志願兵による『奇兵隊』の不祥事により謹慎していた晋作は藩を救うため、欧米各国と和議交渉へ臨んだのだ。
この事件の後、長州藩内は分裂、佐幕派が実権を握り、第一次長州征討では穏便に済ませたい藩内の佐幕派は幕府の条件に従い恭順する。
これをよしとしない高杉晋作は慶応元年(1865年)12月、伊藤博文率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺にて挙兵、藩内の保守勢力を一掃し、藩論を倒幕に統一することに成功した。
これを機に藩の実権を握った晋作は慶応2年(1866年)1月、木戸孝允らとともに、坂本龍馬を仲介とした薩長同盟を締結。敵対していた西南の雄藩が協力体制をひくことで、倒幕へと一気に加速する。
同年6月の幕府による4境からの攻撃では晋作は海軍総督として戦う。
先の盟約により薩摩藩は幕府からの出兵を拒否、幕府軍総督の消極的な采配もあり戦局は長州藩優位に進んだ。
そんな中、将軍家茂の死に伴い幕府軍は撤退、事実上の幕府軍の全面敗北となる。
この敗北により幕府の権威は失墜、翌年11月の大政奉還へと繋がることになる。
しかし、戦い続ける晋作の体は病魔により蝕まれていた。
労咳である。今でこそ治療を完了すれば治る病気だが、日本では明治初期まで不治の病と恐れられていた。桜山での療養もむなしく慶応3年4月、明治維新の結末を見ることなく夭折。27歳の若さだった。
晋作の死後、明治維新を主導した長州藩と薩摩藩からは、政府に多くの人材が枢要な地位に就きました。さらに後年の西南戦争により薩摩藩出身者は多数の人材を失ったのに対し、木戸孝允以降も順調に世代交代を進める長州藩は、明治時代を通して長州閥と呼ばれる政治的人脈を形成していったのです。
『ふぐ』や『なつみかん』『萩焼』などとともに特産品として『総理大臣』が冗談でいわれるほど数多くの総理大臣を輩出してきました。
「おもしろき こともなき世に おもしろく」
晋作の辞世の句として有名な句。
若くして死した晋作の眼には、どのような世が見えていたのでしょうか。
さて永山酒造のある厚狭という地名は、日本の難読地名としても有名ですが、西暦737年の古文書には厚狭との記載があり、天平の昔からの地名です。
近年では、明治12(1879)年に厚狭郡が制定されてから、厚狭町そのものが吸収離脱合併の連続でした。
その厚狭町と埴生町が合併したのが昭和31年、その合併でできた山陽町から楠町だけ宇部市に編入され、残った山陽町と小野田市が合併して山陽小野田市になっています。
長い歴史の中で首尾一貫して取り組まれてきたのが厚狭川の干拓事業。
現在の地名で『有帆までが陸地であり、そこから先は海だった。江戸時代後期から有帆より南側が埋め立てられた…』とあります。
合併の相手だった小野田市とて干拓で大きくなった町で、もともとの地名は須恵村の干拓地だったものが、小野田セメントの創業で干拓地の地名であった小野田の方が有名になったものです。もともとの須恵村の須恵は須恵焼の須恵。今でもガラス工芸などが盛んな街です。
もうひとつ、厚狭を語る上で欠かせないのが『三年寝太郎物語』。全国各地に三年寝太郎の逸話はあり、その多くが三年寝た後で灌漑をしてますが、ここ厚狭の寝太郎の違いは、起きてから突然に船一杯の草履を作らせたこと。寝太郎は、その草履を佐渡に輸送し履き古しの草履と交換して帰ってきます。その交換して持ち帰った、ボロボロの草履を洗い佐渡の土を落とした桶の底からは砂金が取れ、それを元手に灌漑事業をした…とあります。
そんな厚狭の街には『寝太郎さん』が根付いています。
駅を降りると寝太郎さんの銅像が旅行客を迎えてくれます。また、わらじを祀る寝太郎神社や寝太郎権現様を祀る円応寺もあります。寝太郎権現様は年に一度の『寝太郎まつり』の日にのみご開帳されるとか。
三年間も寝ていた人が一声かけると皆々が船一杯の草履を作った…というところに、長州人そのものの人物感というか、正しい事を興す人を盛りたてる内なる結束力、総理大臣を何人も輩出した県民性を感じます。
偉人を多く輩出し、現在の日本のもとを築いたともいえる山口県。
そんな”山口県”にこだわって造られる永山酒造の酒。
長州人の気概と魂のこもった銘酒『山猿』で、今宵も酔いしれてみましょう。