プロローグ

江井ヶ嶋酒造株式会社

豊饒の海峡きらめく江井ヶ嶋に、西灘の美酒「神鷹」あり

豊饒の海峡きらめく江井ヶ嶋に、西灘の美酒「神鷹」あり

澄み切った春の海風が、洋々と輝く播磨灘を渡っています。
兵庫県明石市に到着した取材スタッフは潮の匂いに誘われて、まずは豊穣なる海峡へと向かいます。

さっそく出迎えてくれるのが、この町のランドマークである「明石海峡大橋」。車窓には悠然とした姿がパノラマのように映っていますが、その橋脚が目前に迫るにつれ、壮大なスケールに圧倒されてしまいました。
霞に包まれる淡路島まで伸びた橋路は、全長3,911m。橋脚間の距離1,991mと、ともに世界一を誇ります。また、主塔の高さは海面上297mで、これは東京タワーとほぼ同じ高さになっています。世界最速クラスの潮流が逆巻く海峡を橋で結ぶために、昭和30年(1955)の調査開始から平成10年(1998)の開通まで、43年もの歳月を要しました。 超近代的なこの巨大橋の下では春の風物詩である真鯛漁やイカナゴ漁の船が行き交い、播磨灘に新旧のコントラストを鮮やかに描き出しているのです。
そして明石港から海岸沿いに西へ向かえば、今回訪問する江井ヶ嶋酒造を背にして美しい弧を描く「江井ヶ嶋の浜」にたどり着きます。

明治半ばまで、この浜辺からは江戸や大坂への“西灘の清酒”が積み出され、15石、30石の大きな酒樽が干されていたそうです。浜辺の東側には千年以上前に奈良時代の高僧・行基に普請された魚住港が、ひっそりと佇んでいました。
江井ヶ島界隈は昔ながらの風光明媚な播磨の風景を偲ばせ、蔵元の素朴な黒塀が銘醸地の風情をそこはかとなく感じさせるのです。

ところで、明石の名の由来は、かつてこの地を領していた「明石氏」に由来します。
明石氏は、室町時代に播磨国守護に命じられた名族・赤松氏の支流で、応仁の乱(1467~1478)頃より台頭した土豪です。遠祖は、古代の明石地方の国造(くにのみやつこ)であったとも伝わり、鎌倉期に地侍集団の頭領として赤松氏の臣下に入りました。
歴代の明石一族の中で最も名を知られるのが、戦国期後半に勇躍した明石 景親です。
西を毛利一族、東は織田軍団に挟まれていた戦国期の播磨国は、いずれに味方すべきかと駆け引きする土豪や地侍集団がせめぎ合い、典型的な群雄割拠の状況でした。
その頃まで、歴代の明石氏は赤松氏の腹心である浦上氏の信頼を得て、明石郡代を与っていましたが、長享2年(1488)頃から三木城に居する別所氏が侵攻を拡大し、明石氏の勢力はしだいに弱まっていました。

伝統ある明石一族の家格を守るため、中堅武家としての生き残り術に徹したのが、明石 景親でした。彼は武辺だけでなく機敏な策師でもあり、時に寝首を掻くような謀略も仕掛けました。その典型的な出来事が、天正5年(1577)の備前・天神山城での寝返りでしょう。
この時、景親は敵方の備前領主・宇喜多 直家に内通して主君・浦上 宗景を謀殺し、宇喜多氏の備前統一に与力することで、明石氏の再興を実現したのです。

以後、客分として宇喜多家に仕え、3万3千石を与り、熊野保木城主となりました。直家が織田信長の軍門に下ってからは羽柴 秀吉の中国攻めに与力し、備中高松城攻めに功績を残しています。
秀吉陣営の一員となった明石氏は、重臣で姫路領主である黒田家と縁を深め、政権の一翼に列座します。天正13年(1585)には大名の地位へ昇格し、住み慣れた播州明石を離れ、山間の豊岡へ移封されたのです。
しかし、文禄4年(1595)関白・豊臣 秀次の反逆疑惑に関与した罪で取り潰され、再び明石の地を踏むことはありませんでした。
そして江戸開幕後の元和3年(1617)、10万石の大名として信州・松本から小笠原忠政が明石へ入封。現在の明石城が、築城されました。
城の資材には、三木城、高砂城、船上城など、播州各地の廃城が解体され使われています。ちなみに、明石の町割りは忠政が客分に遇していた剣豪・宮本武蔵の設計と伝わっています。
古来からの肥沃な穀倉地で豊かな海の幸に恵まれる明石藩は、その後、松平氏など徳川親藩、譜代の大名家が蔵主を務め、平穏な治世が保たれたのです。結果、西灘(にしなだ)と呼ばれる銘醸地・江井ヶ島の発展にもつながったのでしょう。

明石市と播磨灘
明石海峡大橋
江井ヶ島の浜
黒壁の蔵棟
明石氏 家紋
明石城
宮本武蔵が町割り
公園

さて、播磨の名はいにしえの頃より史書や和歌集にしきりと登場しています。
そのためか、明石市には数々の名所・旧跡が存在し、グルメ志向でこの地を訪れた人たちは多彩な文化的側面に驚かされます。
まずは、明石へ旅したなら誰もが一度は訪れるという、人丸山へ向かいましょう。
小高い丘の麓にそびえるのが、「明石市立天文科学館」です。昭和35年(1960)に建てられた時計台は世界的にも知られる町のシンボルで、これは東経135度に位置する明石市が日本標準時刻の子午線上にあること示しています。
科学館を見学したら、裏手に佇む「柿本神社」を訪ねて“二礼・二拍手・一拝”。
ここは万葉の歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)を奉じており、明石市民が「人丸さん」と呼んで慕う古社です。現在の境内は、元和3年(1617)小笠原忠政が明石城を築く際に移転したものですが、その奉献は仁和3年(887)と記録されています。
地元の古刹・月照寺の僧であった覚証が、播磨灘を望みつつ歌を詠んだ柿本人麻呂の霊が明石に留まっているのを感じて、祠を建てたことが柿本神社の起源とされています。

天離かる 鄙の長路ゆ 恋来れば
明石の門より 大和島見ゆ

柿本神社の御霊は、和歌の神、学問の神ですが、江戸時代には「人丸」が「火止まる」に通じるとして、防火の神様としても崇められています。

人丸山の参道を降りきった場所には、明石の名水である「亀の水」が滾々と湧き出していました。
山裾から湧き出るその霊泉の水質は、酒造りにも適している中硬水。播磨三名水の一つで、いつしか“長寿の水”として大切に守られてきました。
平日にもかかわらず、喫茶店から一般家庭の人たちまで、多くの市民がペットボトルやポリタンクを手にして湧き口に列をなしているのです。
そして、取材班がぜひ訪れたかった明石名物「うおんたな/魚の棚」商店街へ到着。グルメ番組などで人気の、関西屈指の魚どころです。
“鹿ノ瀬”と呼ばれる深い海底、激しい潮流に揉まれる播磨灘は、年間を通じて海の味覚の宝庫。酸素とプランクトンを多量に含む海水が行き交うため、さまざまな種類の魚介類が集まっています。
その豊富な漁獲高によって、“昼網み”と呼ばれる1日2回目の水揚げもあるほどです。
これらのご馳走をどっさり並べているのが、「うおんたな商店街」です。
全国的に有名な明石鯛、明石ダコのみならず、うおんたなでは四季折々の播磨灘の味覚を探すことができます。また、店頭で焼かれるアナゴやタコの香ばしさは、日本酒ツウにはたまらない酒の肴になるでしょう。

明石市立天文科学館
柿本神社
亀の水
亀の水
うおんたな商店街

いい魚・いい水・いい旅と、三拍子揃った明石の町。その魅力をさらに実感させてくれるモチーフと言えば、やはり播州の風土と素材を使ってじっくりと仕込んだ“いい地酒”でしょう。その美酒こそ、江井ヶ嶋酒造の銘酒「神鷹」なのです。
ちなみに、江井ヶ島の名には2つの由来が残っています。
前者は、行基が当時“島”と呼ばれていたこの地に、魚住の泊を築いた時のこと。
海上安全の祈祷中、入り江に畳二枚ほどもある巨大なエイが入って来ました。村人たちは驚き、不安がりましたが、行基がエイに酒を飲ませると満足して帰って行った。これが「エイが向かってくる嶋」説です。
後者は、行基が江井ヶ島に掘った井戸水による説。“西灘の寺水(てらみず)”と呼ばれる良質の水は、飲み水だけでなく灌漑用としても素晴らしく、「良い水の嶋」=「ええ水の島」となった説。
いずれであろうとも、たおやかな播磨の魅力が満ちていると筆者は思うのです。
そんな憧憬を想いつつ、江井ヶ島の酒物語を始めることとしましょう。

銘酒「神鷹」
江井ヶ嶋酒造 株式会社