江井ヶ島の地と民をこよなく愛した卜部家は、文哲・吉田 兼好の末裔
江戸時代になると、江井ヶ島一帯は物流拠点の港町として活況します。
明石北部の盆地で収穫される優良な米は、大坂堂島の米市場で「谷米(たにまい)」と呼ばれる最高級品で、これを積み出す船で港は賑わいました。
町が栄えれば、必然的に市場が建ちます。それは惣領である卜部家の門前に軒を連ね、いつしか卜部館は“市場屋敷”と呼ばれるようになります。その後、卜部家は“市場屋”の屋号で質屋業(金融)を営み、延宝年間(1673~1681)には江井ヶ嶋で初めて酒造業に着手しました。
江井ヶ嶋酒造資料館には、延宝7年(1679)発行の明石領内酒造株の鑑札が保管されており、それによると酒造高50石を認められています。
爾来、代々の卜部 八兵衛は、良質の谷米、そして行基上人の掘った井戸水“寺水”を使った美酒を醸し、江井ヶ島一帯の酒造りを牽引します。
ちなみに、天明8年(1788)の明石領内酒造家は61人。その内、江井ヶ嶋界隈には、八兵衛を筆頭に14人が存在しています。
江戸期は年貢米の出来高や値段が景気・物価の基準となったため、幕府は天災飢饉など事あるごとに各藩に酒造株規制や酒造制限を設け、ために酒造家の浮き沈みが頻繁し、違法を犯す酒造家も現われます。
これを防ぐため、天保年間(1830~1844)頃の明石藩では八兵衛が中心となって組合の原点である“酒造仲間”を組織し、酒造家の連携と情報交換、徴税や事務を担うことで、藩からの信頼と保護を得ました。こうして卜部家は、西灘のリーダーとしての地位を不動のものとしていったのです。
明治時代の廃藩置県後、全国の酒造株制度は廃止され、酒造仲間も解散となり自由化されます。新たな免許制によって明石でも酒造家が急増しますが、組合的な結束力が存在しないため、技術的にも品質的にもバラつきのある酒が生まれることとなりました。
西灘に垂れ込めてきたこの暗雲を吹き払ったのが、江井ヶ嶋酒造株式会社の創業者である卜部 兵吉でした。
卜部 兵吉は、四代目・八兵衛の長女の婿養子になった卜部 八右衛門の血筋に当たります。嘉永6年(1853)、商才に長けた父と倹約蓄財な母の次男として誕生しました。控え目なおとなしい性格で“くらがりの兵吉つぁん”と呼ばれましたが、内に秘める負けん気と辛抱強さには、誰もが驚いたそうです。
兵吉は16歳になると旧制中学の前身である神戸の明親館へ進学。福沢諭吉の授業も受けるなどし、国学や漢学、洋学と多岐に学びました。その後、旧・明石藩校の景徳館で後進を指導し、江井ヶ嶋へ戻るや明治6年(1873)21歳で分家独立して、酒造業を始めます。
江井ヶ島に生まれ育った兵吉は郷土を愛し、酒造業を地元の一大産業へ発展させ、土地の人々が誇りを持って働ける場を育もうと考えます。そのためには、小規模の酒造家が一致団結し、灘に負けない統合的な酒造会社を組織することだと、近代学問を修得した兵吉は悟っていたのです。
簿記会計に精通した兵吉は27軒の酒造家を招き株式会社の有利性を解きますが、多くの個人酒造家が先祖からの屋号や身代を失うことに難色を示し、組織化は困難を極めました。それでも確信を貫く兵吉は、ついに明治21年(1888)兄弟・縁者5人による資本金3万円の株式会社を発足させたのです。
卜部 兵吉、35歳。ここに、江井ヶ嶋酒造株式会社が呱々の声を上げました。 この時から、卜部家は“株式さん”と呼ばれるようになったそうです。そして銘酒「日本魂(やまとだましい)」、「百合正宗」、「神鷹」を発売し、兵庫や関西の品評会で優等賞を獲得し始めるのです。
明治28年(1895)の“全国酒造家造石高見立鑑”によると、株式会社はたった2軒しか存在せず、江井ヶ嶋酒造株式会社は頭取の立場にあり、その石高は12,588石で4位でした。この2年後にはパリでの万国博覧会に出展、ハワイへの輸出も開始しています。
また兵吉は、酒造業以外でも惜しみなく地元へ貢献しました。24歳の時には、選挙運動を一切せずに周囲の人望を集めて、県会議員に当選。江井ヶ島尋常小学校の設立、江井ヶ島港の改修と整備、江井ヶ島貯金会を設立して勤勉貯金を奨励、江井ヶ島郵便局の開設と局長就任など、酒造りで財を成せば、まずは江井ヶ嶋の繁栄に役立てたのです。
企業となった江井ヶ嶋酒造は着々と発展し、明治32年(1899)業界で初めて手造りガラスによる製瓶工場を併設して、「日本魂」の一升瓶を開発。これは日本魂を偽る不良品を防ぐためであり、品質管理面でも優れた商品となりました。
日清、日露戦争後に大陸進出ブームが起こると、江井ヶ嶋酒造は明治45年(1912)朝鮮半島の京城へ出店しています。大正7年(1918)には、第一次世界大戦中の好景気によって6番目の酒造蔵を持つに至りました。
その銘酒の数々は日本国内のみならず、ハワイ、台湾、中国などへも出荷されるようになり、江井ヶ嶋の浜から神戸港まで酒を積み出すため船舶部が設けられ、6隻の船を保有したのです。余談ながら、先述のガラス瓶、船、蔵など、いずれも兵吉は自社内で造り出すことをモットーにしました。
この時勢を機に江井ヶ嶋酒造は多角的な企業経営を目指し、大正8年(1919)には蒸留酒工場を竣工。「白玉焼酎」、「白玉味醂」、「ホワイトオークウィスキー」「シャルマンブランデー」、「白玉ホワイトワイン」も手がける一大アルコールメーカーへ躍進して行きます。
経営は社長の兵吉を中心に、取締役・卜部 豊太郎(兵吉の義弟)が補佐していましたが、新たな江井ヶ嶋酒造を背負って、この後の辛苦を乗り越えて行くのが兵吉の長男・退三でした。
退三は、明治25年(1892)生まれ。早稲田大学を卒業後、大正12年(1923)に家業へ入ります。
しかし、この年9月には関東大震災が発生。第一次世界大戦後に勃発した大恐慌からようやく立ち直りかけた日本経済は、またもや甚大な被害を被ります。さらに復興の遅れから深刻な金融恐慌へと突入し、昭和元年(1926)を迎えてもドン底景気を抜けられませんでした。この結果 、酒類の消費も急落することとなり、古酒がダブつき相場を暴落させたのです。
政策によって酒税は吊り上げられたものの、低迷する消費に全国の酒造家が続々と倒産。江井ヶ嶋酒造も、創業以来の危機に瀕しました。
そんな最中、12月30日に創業者・卜部 兵吉が74歳の生涯を閉じます。
退三は父の遺志を継ぐべく、叔父の豊太郎とともに対策を講じ、(1)経費削減と全員の減俸(役員は無給、従業員は1割程度の減俸)(2)手持ちの古酒は早急に処分(3)不動産の原価償却と停滞金の大整理を行い、この難局を乗り越えたのです。
翌年から専務取締役に就任した退三は、不況の時こそ手売りで地元市場を開拓することが肝要として、昭和6年(1931)の姫路出張店を皮切りに、明石出張店、京都出張店と矢継ぎ早に出店を重ね、京阪神での日本魂、神鷹のニーズを確保します。
また、不況時代の経済酒として合成清酒を開発・販売。白玉 ワインの台湾での人気とともに業績を復活させ、全体の酒類製造量も15,000石近くに及びました。
しかし、退三が社長に就任した昭和16年(1941)頃には軍事政権による統制経済が進行、またもや酒造業界に厳しい冬の時代が訪れます。
江井ヶ嶋酒造は廃業措置や操業停止は免れたものの、統制真っ只中の昭和19年(1944)の製造量 は4,729石まで落ち込み、昭和25年(1950)の朝鮮特需による景気復活まで陰を引き摺ったのでした。
神武景気や岩戸景気などによって、戦後復興に光が見え始めた昭和30年代。焼酎や三増酒(アル添酒)の需要が急激に増え始めると、江井ヶ嶋酒造はようやく息を吹き返し始めます。
五代目の卜部 譲の時代になると、江井ヶ嶋酒造は自社商品の広告宣伝を大々的に展開。ネオンサイン、コンサートや試飲会、宣伝カーやアドバルーン、友の会の発足などが消費者を惹きつけます。
また家庭の晩酌イメージを一新する、飲み切りタイプのガラス製一合瓶が登場。
白玉ホワイトワインや白玉ポートワインは、洒落たギフト商品として人気をさらいました。
そして昭和38年(1963)、本社敷地内に地下1階・地上2階建ての広大な瓶詰工場、山梨県北巨摩郡にワイナリーが新設されます。翌年の製造総量 は80,000石にも迫り、ついに江井ヶ嶋酒造は、明治期の繁栄を髣髴とさせる規模へ返り咲いたのです。
テレビCMの「酒は神鷹、男は辛口」のキャッチフレーズとともに、磐石なる銘醸へ成長した江井ヶ嶋酒造は、昭和50年頃の地酒ブーム期以後は「神鷹」の吟醸酒へも注力し、“すっきりとした西灘の辛口の酒”を改めて全国に知らしめます。
昭和63年(1988)には六代目社長・卜部 紫朗が創立100周年を迎え、2世紀目の船出を飾る白亜の新社屋を竣工させました。
そして今、130周年を迎えたのが八代目である、平石 幹郎 社長なのです。
「当家は、江井ヶ島とともに生きてきました。江戸期の“市場屋”の屋号も、創業以後の“株式さん”の呼び名も、地元の皆様が親しみを込めて付けて下さった愛称です。江井ヶ嶋の発展を願い、この地の風土と人々の暮らしを慈しんだ初代・兵吉は、何よりも喜んでいたはずです。その心は今も当社の理念“誠実”に息づき、その魂は当時からの蔵に宿っていると思います」