京文化が色濃い伏見で日本酒と向き合い続ける
山本本家の創業は江戸時代初期の延宝5年(1677年)。江戸時代の伏見は大阪と京都を結ぶ舟運の港があり、多くの人と物資が行き交う街でした。
参勤交代で江戸へ向かう西国大名は、伏見に逗留してお酒を求めたと言われています。また、明治維新の志士たちも京都へ向かうために伏見に上陸し、寺田屋などの旅籠に滞在しました。坂本龍馬や桂小五郎といった維新の立役者たちも、きっと山本本家のお酒を愛飲していたに違いありません。
隆盛を極めた伏見の街ですが、戊辰戦争の発端となった「鳥羽・伏見の戦い」の戦火が襲います。街のほとんどが灰燼と化し、山本本家も酒蔵もろとも消失してしまいました。しかし、当時からその地位を確立していた山本本家の再興は早く、「鳥羽・伏見の戦い」が起きた慶応3年(明治元年)のうちに母屋や現在の本社が再建されています。
そして、大正に入ると早くも東京の問屋とも直接取り引きを始め、首都圏でも山本本家のお酒が親しまれるようになります。
1960年台には、喜劇役者伴淳三郎を起用した「神聖」のCMを放映。「かあちゃん、いっぱいやっか」というフレーズは子ども たちが真似するほどの大反響を呼び、「神聖」の名は広く知れ渡りました。
古くから山本本家の当主は茶道や和歌を嗜んでおり、大正の初めにはすでに表千家と親交があったことがわかっています。当代の而妙斎千宗左家元が襲名する際には、「松の翠」を茶懐石に最適なお酒として認められました。「松の翠」と命名されたのも家元であり、表千家の茶事で使用される唯一の公式なお酒となったのです。「松の翠」は山本本家と表千家の深い結び付きをよく表す銘柄と言えます。
山本本家は、日本酒に親しんでもらうための場所や機会も積極的につくってきました。昭和51年(1976年)からは伏見で、人気居酒屋「鳥せい本店」を経営。日本酒ファンにはたまらない蔵出し生原酒や種々の日本酒に加え、「日本酒ハイボール」などの日本酒に気軽に親しめるメニューも揃えています。
また、毎年蔵開きを行なってお客様と交流を持ったり、お酒に強くない人でも飲みやすい「抹茶のお酒」「柚子想い」などの新商品開発も手がけています。3年前から運営する「神聖酒米の会」は、酒米「祝」の田植えからお酒の仕込みまでをひと通り体験でき、完成したお酒と酒粕がもらえることもあって、参加人数が限られるものの毎年大変な人気となっています。
300年以上に渡って、日本酒のあり方や日本酒と人との付き合い方を見つめ、酒造りを極めてきた山本本家。その洗練された日本酒の味わいは、現在も多くの人に愛され続けています。