山崎家代々の酒魂「正統男山の名にかけて、いい酒を造る!」
北海道のほぼ真中も位置する、旭川。人口36万を擁する、道内第2の都市です。 広大な大雪山系の原野を切り開いたこの町は、約120年を経た今も、大自然の恵みとともにあります。
愛酒家の読者の方々なら、「男山(おとこやま)」の銘を持つ酒が、全国そこかしこにあることをご存知でしょう。
これは男山=美酒の代名詞であった江戸時代の名残と言えますが、本来は京都府八幡市にある「男山八幡宮」に由来します。
男山八幡宮は清和天皇(在位858~876)が宇佐八幡(大分県宇佐市:全国八幡宮の総本社)の神霊を勧請したのが起源とされ、源氏の氏神でもあることから、源 義経や足利 尊氏など源氏ゆかりの名将たちも数多く奉じています。
その由緒ある社の霊験を酒に授かるべく、「男山」の銘柄を用いたのです。
男山の酒は、歌舞伎や浄瑠璃本にもたびたび登場しています。徳川将軍家の御前酒の一つになり、江戸庶民に絶賛された兵庫県伊丹の「下り酒」でした。その威光にあやかろうと、幕藩体制の消えた明治時代以後、全国の造り酒屋でも男山の銘を用いたのでしょう。
ところが、今回訪問する蔵元・男山株式会社は、旭川市のメーカー。
むろん創業は北海道が開拓された明治期で、前述と同じように男山を引用した蔵元かと思われがちですが、その推察はきっぱり否定されるのです。実は、この男山株式会社こそ、御膳酒・男山を受け継ぐことを許された正統男山なのです。
では、何ゆえ最果ての地・旭川に、伊丹の伝統酒銘が譲られたのでしょうか。
その歩みを語るには、今一度、本家本元の伊丹酒「男山」を見つめる必要があるようです。
正統・男山は、寛文元年(1661)五摂家筆頭の近衛 公が、伊丹領主として清酒醸造を奨励した頃に誕生しています。当時の伊丹酒屋の一つに、「木綿屋山本本家」がありました。この造り酒屋は、元禄時代から享保年間(1690年前後~1730年前後)が最盛期で、享保17年(1732)八代将軍・吉宗の御膝酒に引き立てられたと伝わっています。
いわゆる灘の酒が普及する前、伊丹酒による第一次期下り酒ブームを巻き起こしたのが、男山でした。また当時、“武士の元服の祝儀には、男山の酒”が定番となっていました。
江戸時代中期から幕末までの長期にわたって毎年刊行された川柳の句集「柳多留(やなぎだる)にも、そう紹介されています。かの井原 西鶴や近松門 左衛門も男山の美味しさを褒めちぎり、与謝蕪村の高弟に醸造元・山本本家の庄左衛門が列していたことから、蕪村も男山を愛飲したと伝えられています。
つまり、男山という酒名は美酒の代名詞として知られるようになり、商標登録などの規制が存在しない時代だったことから、醸造家たちがこぞって酒に冠したのでした。
ところが、そんな伊丹の男山も文化文政年間(1804~1830頃)の灘酒ブームに押しやられ、明治初頭には廃業することとなったのです。
そして時は流れ、昭和時代の半ばに、北海道旭川の造り酒屋・山崎酒造が伊丹の山本本家の末裔を訪ね当てたことで、正統男山が北の町・旭川で復活。伝統の御膳酒が、ついに息を吹き返したのです。
さて、男山株式会社の前身である山崎酒造は、明治32年(1899)に旭川で創業しています。初代・山崎 與吉(やまざき よきち)は安政2年(1855)新潟県南蒲原郡の出身で、明治15年(1882)に北海道へ移住した人物です。
與吉は札幌の造り酒屋で働き、4年後には、小さいながら自身の酒屋を開店します。
生真面目で辛抱強く、コツコツ努力を重ねる人柄が成功をもたらし、またとないチャンスが彼に巡ってきます。
旭川への鉄道延伸と町の振興でした。
この時期と前後して、旭川には酒造業者だけでなく、味噌・醤油製造業なども立ち上げられています。その理由は、陸軍第七師団の設置にありました。
急速に進められる町造り、突貫工事による建物や道路整備には数多の人材が必要で、札幌や本州からの移民が陸続と旭川へ入植。町の人口は、一気に膨れ上がりました。当初の旭川では、山崎酒造も含めて5軒の造り酒屋だけ。開業当初の造石量を見てみると明治34年(1891)は845石で、4番目に多い石高でした。これが、明治44年(1901)には1375石まで増えています。ちなみに、旭川の蔵元数は17軒あまり。町全体の造石量も、一万五千石に達しました。
当時の山崎酒造の銘酒は「今泉」「今与旭」などで、それらは全国新酒品評会にも出品され、二等や三等を受賞しています。
酒造りの蔵人は、一般的に蔵元と同じ出身地の職人が多く、おそらく山崎酒造には越後 杜氏や蔵人が季節労働者としてやって来ていたのでしょう。
北海道の人口が170万人を超えた大正時代から昭和初期、山崎商店は3000石を超える造石量に達しました。他店も着実に生産量を増やしていましたが、皮肉にも、その半数以上は本土への移入酒となっていました。
「灘にあらずば、酒にあらず」というブランド意識が北海道の人々には強く、道産酒は僅かしか消費されません。そのため、格下の田舎酒として、秋田県などの東北に市場を求めざるを得なかったのです。
與吉には、無念の思いが募るばかりでした。一つには、北海道の原料米では本土の酒に引けを取ってしまうという現実でした。寒冷な旭川周辺で作る米は、兵庫県などの上等な酒米とは比べようのない品質。しかし、それを改良する術など、当時の酒造業界どころか国でさえ考えが及ばす、寒冷な風土の前にあきらめるしかないのでした。
さらには、自分たちの技術と設備の粗末さも、灘の酒に太刀打ちできない根本的原因と実感した與吉は、旭川酒の発展を牽引すべく、旭川酒造組合長を歴任し、品質向上を掲げた蔵元団結を図ります。
この時の與吉の「本州に負けない、いい酒を造る」精神が、今日も男山株式会社の根本に脈々と流れているのです。
戦時下の統制を乗り越えた山崎酒造は、昭和43年(1968)、新社屋竣工とともに社名を男山株式会社と改めました。当時の銘柄には、すでに男山を冠した商品もありましたが、この時に、冒頭に述べた伊丹の伝統酒・男山を醸していた山本本家の後胤から、正統を伝承する印鑑ならびに印鑑納め袋が、三代目・與吉社長に手渡されたのでした。
その祝賀会の席上、與吉社長は「男山の銘柄を使う以上、“いい酒を造る”の思いを我が社の根本精神にしましょう。本家本元の御蔵元の栄えある伝統を、いつまでも継承していきたいという我々の心を、その末裔の方にご理解頂きたい。そんな思いから、私どもは何年もかかって、ここにようやく山本 良子さんというご本家に辿りついたのであります」と、挨拶しました。
以後、男山は道産の名酒として再出発し、その名にかけた美酒を醸し出します。
近年、男山の吟醸酒は海外市場での人気がめざましく、ニューヨークやロサンゼルスなどで「SAKE」ブームを巻き起こす魁となりました。
その新たな挑戦に踏み切ったのが、現社長の山崎 與吉(やまざき よきち)氏です。
「世界の男山」のスローガンを掲げ、ベルギーのモンドセクションなど幾多の世界的コンクールで称賛を受け、高い評価が日本市場に認められたのです。
このエピソードも含め、四代目である山崎 與吉 社長の魅力と理念は、蔵主紹介ページで語ることとしましょう。
天下の美酒を復活した子孫に、創業者・與吉は、天上で大いに溜飲を下げ、男山の盃を飲み干していることでしょう。
その美酒の物語に、酔いしれることとしましょう。