酒、人、心・・・・・・たおやかな妙高山の恵みを授かる、上越に魅せられて。
真冬ともなれば鉛色の怒涛が打ち寄せ、“波の華”が舞う上越の海。しかし、「船見公園」から眺める海原は夏の光芒に輝き、どこまでも碧くたゆたっています。彼方に霞むのは、佐渡ヶ島でしょうか。
船見公園に隣接する直江津港は、かつては北前船の着く港町で、古くから上越の海運と漁業を支えてきました。今でも市内で恒例となっている朝市では、新鮮な日本海の幸をふんだんに買い求めることができます。
そして、遥か南を望めば、「越後富士」たる妙高山が緑に萌えています。
その麓にある妙高高原の「赤倉」や「池の平」は、夏の避暑、冬のスキーリゾートで人気のスポット。澄んだ空気と清冽な水が、都会人の心身を癒しています。
「上越」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、“川中島の戦い”で知られる越後の覇者・上杉 謙信(うえすぎ けんしん) でしょう。
上杉 謙信は、享禄3年(1530)越後の守護代・長尾 為景(ながお ためかげ)の末子として生まれました。幼名は「虎千代」。家督権のない虎千代は、幼くして出家の道を選ばされています。毘沙門天を生涯崇拝した理由はここにあり、また母親の「虎御前」は、熱心な観音菩薩の信者でした。
しかし、当時の越後は応仁の乱以後の群雄割拠に巻き込まれ、戦乱のさなかにありました。一族・国人同士の争いが絶えず、為景の嫡男・長尾 晴景(ながお はるかげ)は虎千代を「長尾 景虎(ながお かげとら)」として還俗させ、旗下に利用しようと謀ります。
ところが景虎は、予想以上の華々しい初陣を飾ったのです。やがて家中に景虎擁立の声が強まり、晴景は景虎打倒を企てますが、越後守護・上杉定実の仲裁によって長尾家の家督は景虎に譲られます。こうして戦国大名・長尾景虎(後の上杉謙信)が誕生しました。
市の北西に据わる春日山には、上杉氏の居城・「春日山城」がありましたが、今はその跡に「春日山神社」が建てられています。
また、幼少の虎千代は、城近くの林泉寺の名僧・天室 光育 禅師の教示を授かり、武門と仏門の両立という独自の思想を追究したと伝わっています。その伽藍は、今も春日山の中腹に佇んでいます。
上越は宗教観の濃い地域でもあります。戦に明け暮れた時代には、一向門徒による抵抗が活発化、織田軍の武将で越州を攻めていた柴田勝家や前田利家を大いに悩ませました。
それほどまで浄土真宗が普及した理由は、承元元年(1207)、かの親鸞上人がここに上陸したためでした。
浄土真宗の開祖・親鸞は、法然上人の“念仏によって悟りを開く”という新たな仏教を師事していました。このため旧来の密教から弾圧を受け、京より追放、越後国府へと流されたのです。
ちなみに、浄土真宗の経典に“海”の字が多く見当たるのは、この地に棲んだことにあるとか。
上陸した海岸付近には、記念碑や小屋の模型が置かれ、親鸞の歩いた方にだけ葉が生えると伝わる「片葉の葦(かたはのあし)」が今も生い茂っています。
近代日本に足跡を残す上越出身の偉人に、“日本郵便の父”と呼ばれる「前島 密(まえじま ひそか)」が挙げられます。上越市では、彼の生家のあった市郊外の下池部に「前島記念館」を設け、その功績を広く市民に公開しています。
前島 密は、天保6年(1835)越後国頸城郡津有村下池部(現在の上越市下池部)に生まれました。医者の息子として医学を志していましたが、蘭学を学ぶ内に西欧文明に触発され、また目まぐるしく変わる幕末に刺激されます。
航海術、砲術などを修得し、各藩の軍艦技術なども指導。また政界にも影響力を及ぼし、慶応2年(1866)には、徳川十五代将軍・徳川慶喜に“漢字御廃止の儀”を提出しています。さらに明治元年(1868)には、大阪へ都を移すことを主張する大久保利通に“江戸遷都”を提唱します。
そして彼がもっとも心血を注いだのが、明治4年(1871)に開始された郵便制度でした。
この前年、前島はイギリスに赴き、西欧の郵便制度をつぶさに観察しています。しかし、それを一気に導入するのではなく、まずは東京、京都、大阪で試験的に展開。何よりも飛脚たちの生活を守るための郵便、逓信制度を考えました。本格的な全国制度はその2年後でした。
今日の日本通運は、この頃、前島の援助も受けて創業したと伝えられています。
晩年まで首都で活躍し、多彩な能力を発揮した彼ですが、故郷・上越の地をこよなく愛していたそうです。
現在の上越市の人口は133,000人。そのほとんどが、スキーを嗜むそうです。近年の都市化・温暖化によって降雪量が減少した上越市ですが、それでも日本有数の豪雪地として知られています。実はこの上越市こそ、日本のスキー発祥の地なのです。
市街を見下ろす金谷山(かなやさん)スキー場には、日本に初めてスキー術を伝えたオーストリアの軍人・テオドール・フォン・レルヒ少佐の銅像が立っています。
明治43年(1910)日露戦争に勝利した日本軍を研究するため来日したレルヒ少佐は、翌44年、陸軍13師団視察のため高田を訪れ、軍用スキー10台を寄贈します。そして、ここ金谷山で軍人へのスキーの指導を行いました。
その後、民間人にも指導し、高田スキー倶楽部を発足させるなど、スキーの普及に貢献しました。
山頂には「スキー発祥記念館」があり、毎年2月中旬には、レルヒ少佐の功績を顕彰する「レルヒ祭」が催されています。
「酒の博士」坂口謹一郎
坂口謹一郎博士は、頸城区中城の大肝煎りであった坂口家の長男として、明治30年11月17日上越市高田に生まれました。このころ、坂口家は、石油精製業の工場を所有していました。
その後、故郷を離れ東京の第一高等学校から東京帝国大学(現東京大学)農学部に進み、醗酵学の研究をし、昭和7年、農学博士としての道を歩み始めました。
やがて博士は日本独自の醗酵学の確立においてやがて博士は日本独自の醗酵学の確立において、世界でも先駆的な研究を進め、その功績が認められ日本農学賞、日本学士院賞など数々の賞を受け、フランスの農学学士員外国会員にも選ばれるなど世界的な権威としての評価を得ました。日本の科学研究において、海外より抜きん出て優れている分野は、応用微生物学であり、それを今日のように導いたのが坂口謹一郎博士なのです。
酒づくりに携わる者で、博士の名を知らぬ者はいません。博士は醗酵の研究を通して、世界に類を見ない日本酒の独特な製造方法や、日本酒の奥深さについて、卓越した見識と豊富な知識を駆使した名著を数多く残しているからです。「酒の博士」と言われた由縁です。博士が研究していたころの醸造学の分野は、古い枠の中でのみ研究することを習慣付けられたものでした。それを応用微生物学、そして現在のバイオテクノロジーと呼ばれる広い分野に導いたのが博士です。
博士は醗酵学・応用微生物学の研究を重ねる中で、昭和39年、フランスの農学学士院外国会員に選ばれるきっかけとなったチーズに生息する珍しいバクテリアの発見など数々の世界的な功績を残しました。中でも日本初の国産ワイン生産のきっかけとなるぶどう酒酵母「Oc2号」の発見は画期的なものであり、現在も全国のワインメーカーで使われています。
冬には大雪に覆われる、妙高の山並み。豊かな伏流水は、幾星霜の歳月にわたり上越の地を潤してきました。そのシンボル「妙高山」を酒銘に頂くのが、今回訪れる「妙高酒造株式会社」です。
潤沢な雪解け水のごとき美酒と聞く「妙高山」……またひとつ、上越の名酒の封を開けてみましょう。