節分明けから降り続く東北や甲信越の大雪の余波で、都内も霏々とした粉雪が舞っていた。新宿御苑や湯島天神では、蕾をふくらませていた梅林が白く凍えている。
駅前のタクシー乗り場は長蛇の列で、家路を急ぐ仕事帰りの人たちがうんざりしながら並んでいた。そんな夜だけに、ポンバル太郎には一人の客もまだ座っていない。
コトコトと炊けるおでん鍋の音が、カウンター席に座る太郎の難しい顔を引き立てた。その視線は、奇妙な形をした漆塗りの器に注がれている。
壺のようで、花瓶とも思える朱色の器には桃の花が浮き彫りにされ、年代物の骨董品に見えた。それを包んでいた宅配便には、“与和瀬ハル子様”の宛名が書かれている。差出人は奈良県に住む“赤木紫光”で、太郎には憶えのない人物だった。
三年前に亡くなっている妻へ届いたことも、太郎の仕込みの手を止めさせた。荷物に添えられた手紙には、ただ「お待たせしました、ハル子さん」と記されているだけだった。
「……いってぇ、どこの誰だよ。見たところ女性の字だし、かなり達筆だな」
太郎が独りごちた時、玄関の鳴子が小さな音を立てた。
頭にかぶったフードの雪を払いながら、高野あすかが肩をすくめていた。来週、ポンバル太郎を貸し切り予約している“ひな祭り女子会”の打合せにやって来たのだった。
「ふぅ、こんな大雪が続くようじゃ、桃の節句どころじゃないわねぇ。太郎さん、女子会の乾杯酒だけど、あったかい甘酒をお願いしていいかしら……あら、それって桃の瓶子じゃない」
ふり返りもせず太郎が見入っている器に、あすかは驚きの声を上げた。
はっとした太郎が、つぶやいた。
「そうか、これが瓶子ってのか……思い出したよ。三年前の冬、ハル子が奈良の春日大社の酒殿を見学する旅から帰った時、瓶子が欲しくなったと言ってた。ただ、この赤木さんってのがなぁ……」
瓶子は中世まで使われた酒器の一つで、貴族や武家が今の徳利のように使った物だと太郎はハル子から聞いていた。
「ええっ! ちょっと、太郎さん! その赤木紫光って、無形文化財の女流漆芸家じゃないの! 私、酒器の取材でお目にかかったことがあるわ」
あすかの高い声は、ガラス窓を震わすほどだった。宅配便の差出人名を見る瞳も、大きく見開かれている。
「む、無形文化財だってぇ? そんな人とハル子が、どうしてつながってんだよ。こりゃ、何かのまちがいじゃねえのかな」
眉をへの字にする太郎は、桃の瓶子と睨み合うようにして頬杖をついた。
すると、おでんの鰹ダシの匂いがあすかの鼻先をくすぐって、玄関に流れた。その湯気に入れ替わる外の冷たい風が、中之島哲男の声も運んで来た。
「いや、まちがいやあらへんでぇ。ハルちゃんを赤木はんに逢わせたのは、わしやさかいな」
マフラーをブルゾンの上にぐるぐる巻いて、ハンチングを目深にかぶっている中之島は、右手に花束を持っていた。桃の蕾が、淡い色を帯びてふくらんでいた。
「三日前に桃の瓶子がようやくできたと、赤木はんから連絡があってな。ハルちゃんと約束してから三年経ってしもてと、恐縮してはった。この瓶子、ハルちゃんが旅の途中で注文したんや。わしが太郎ちゃんに内緒にしてたんは、ハルちゃんから口止めされとったからや」
中之島は桃の花束をカウンターに置きながら、そのまま問わず語った。瓶子の絵柄によく似た、紅白の桃だった。
ハル子は中之島の紹介で春日大社の酒殿を特別に拝観し、かつて平城京から平安京の頃には巫女たちが酒造りを司っていたと知った。鎌倉時代から昭和の頃までの千年間、酒造りの現場は女人禁制だったが、そもそもは女性の手によって造られていたことに感動した。酒殿の神棚には遥かな昔に巫女たちが使っていたのと同じ桃の瓶子が祀られ、ハル子はそれに見惚れたと中之島は言った。
「ふうん、巫女さんが酒を造っていたんですか。まあ、雰囲気に呑まれてすぐに感動しちまうのは、ハル子の悪い癖でしたから……でも、俺に口止めってのは、どうも解せないすね」
小首をかしげる太郎に中之島がほくそ笑みながら
「女の勘では、どないや? あすかちゃん」
とあすかに訊いた。
瓶子を映すあすかの瞳はまばたき一つせず、眼力がこもっていた。
「私、たぶん、ハル子さんは娘さんが欲しかったんだと思います。剣君がすくすく育って、次は女の子を……そんなふうに期待してたんじゃないかな。将来は、日本酒が好きな女性に育てたいって」
「さすがや……太郎ちゃん、ハルちゃんはその瓶子の作者である赤木はんに逢いたいちゅうてな。わしが連絡してOKもろたら、赤木はんのアトリエに飛んで行きよった。それで、いつか娘が産まれたら桃の瓶子を作ってもらいたいと、赤木はんへ頼んだ」
しんみりとする雰囲気に、中之島が冷蔵ケースから一升瓶と三つの冷酒グラスを取り出した。ハル子がお気に入りだった、桃の節句向けのにごり酒だった。
「……あいつ、そんなこと、俺にはひと言も言わなかった」
つぶやく太郎に、中之島はグラスへにごり酒を注ぎながら笑った。
「ハルちゃんはポンバル太郎が二年もって、繁盛してたら娘作りに励むって笑うてたな。たぶん当時は開店したばっかりで、頑張らなあかん太郎ちゃんに無理強いせんかったんやろなぁ」
「でも今さら、これを送ってもらう理由はないですよ。それに高価な物でしょうから、支払いも困っちまうな」
グラスのにごり酒が、瓶子を手にする太郎のため息に揺れた。中之島はグラスを飲み干して、もう一度笑った。
「大丈夫や……それ、ハルちゃんへの贈り物やねん。赤木はんも娘が欲しかったけど、若い頃に旦那を失くして諦めたんや。それだけに、ハルちゃんの願いを叶えてやりたかった。亡くなったと知って落胆し、瓶子を作る手を止めてたんやが、ハルちゃんと約束した三年目の今、この店に飾ってもらいたいと作り上げたそうや」
中之島の言葉に、誰とでもすぐに打ち解けてしまうハル子の才能を太郎は懐かしく思い出した。
二人のやり取りを聞きながらにごり酒を味わったあすかが、口を開いた。
「来週の女子会、その瓶子にハル子さんの好きだったにごり酒を入れて欲しい。一緒に、女子会に加わってもらいたいから」
「そら、ええわ! ハルちゃんも喜ぶでぇ」
何度も頷く中之島に、太郎が苦笑いした。
「これを使うってのか……あすかも物好きだな。まるで、若い頃のハル子だ」
まんざらでもない太郎の手から、あすかは瓶子を取った。絵柄を回し見ると、瓶子の中でかすかな音がした。
「何かしら……」
瓶子を逆さにすると小さく巻いた紙切れがカウンターに落ちて、太郎の前に転がった。
それを開いた太郎の顔が、ゆっくりと紅潮した。
「命名 モモ子……そんなことまで考えてたのかよ」
茶色がかった紙切れの字は、ハル子の筆跡にちがいなかった。
手元を覗いた中之島が、太郎の背中にそっと手を置いた。
「その紙は、赤木はんがずっと大事に持ってたんやろう。ハルちゃんにモモちゃん、春に咲く桃か。ええ名前やなぁ。おっと、すまん……いらんこと言うてもうた」
目頭を押さえるあすかのグラスに、太郎がにごり酒を注ぎながらほほ笑んだ。
「この瓶子、娘みたいに大事にするよ。それに……あすかは俺の大切な妹だ」
カウンターの温もりにふくらんだ桃の蕾が、瓶子の絵柄にそっと寄り添っていた。