大寒の声とともに、都内の百貨店には日本酒売り場へ立つ蔵元の姿が増えている。
ようやく登場した今年の大吟醸や純米大吟醸に、日本酒好きの外国人客の姿も見受けられた。ちょっとした立ち飲み屋のように、混雑している。
ポンバル太郎にも、鑑評会出品酒の仕込みが佳境を迎えていると杜氏たちから便りが届き、そんな取材に忙しいのか高野あすかやジョージは、ここ数日、姿を見せていない。
「今は、杜氏や蔵人が一番ピリピリしてる時期ですねぇ」
話し相手がいない平は、手持ち無沙汰なようすでぬる燗の盃を傾けた。今夜の火野銀平と右近龍二は、有楽町で催されている利き酒イベントに参加している。
いつになく静かなカウンターに立った太郎は、厨房の炊飯器から立ち昇る湯気に目をやった。
「この季節の蔵は、酒米を蒸す甑の湯気がもうもうとして感動します。蔵人もそんな湯気に包まれると、うまい酒を造ってやろうと奮い立つそうです」
「まさに、神宿る雰囲気でしょうねぇ。やはり数字じゃ割り切れない世界が、酒蔵にはあるのでしょう。私のやる陶器の窯もそうですが、最期に物を言うのは職人が培ってきた経験と知恵だと思います。ほんのわずかな工夫で、仕上がりがぐっと良くなるものですよ」
平が心地よさげに盃を飲み干すと、玄関の鳴子が乾いた音を響かせた。
「おっ、今夜は平先生だけかいな。こりゃ、都合がええ。さあさ、青井はん。入ってくんなはれ」
入って来たのは、黒いダウンジャケットに着ぶくれした中之島哲男だった。後ろには、一升瓶らしき包みを二つ手にした白髪の男が立っている。そのギヌロとした大きな目が、ポンバル太郎の店内を見回した。
毛糸の帽子とジャンパー姿は、六十歳半ばとおぼしき風貌だった。
「こちらは、兵庫県丹波市の銘酒“丹鶴”を造ってる青井杜氏はんや。10号酵母を使った酒造りには、右に出る者はおらへん天才や」
溜飲を下げるような中之島に青井は応えず、総杉張りの壁を見つめてつぶやいた。
「吉野杉か、大したもんや。この店には、ええ酵母が居ついてますな」
青井が愛しむように壁板をさわった。
平は赤くなっている目尻を、中之島たちへほころばせた。
「それは、初めて聞きました。噂をすればじゃないですが、まさに太郎さんと、この方が持っているような世界観を話してたのですよ」
太郎はまばたきもせず、青井の横顔を見つめていた。どこか見覚えのある顔だった。
中之島からカウンター席へ誘われた青井は、帽子を取ると太郎たちに真っ直ぐ向いておじぎをした。
「中之島はんから、ポンバル太郎さんへ酒を置いてもらうよう勧められました。よろしゅう、お頼み申します」
風貌とはちがった律儀な青井の態度に、太郎ははっとして答えた。
「あの……十年ほど前に、青井さんの講演を聞かせてもらった記憶があります。確か、日本酒には麹が一番肝心ってお話しでした。同じ米、同じ水であっても、蒸す日の気候でさえ麹の出来栄えが変わるって」
偶然のことに青井が目を見開くと、中之島は嬉しそうに言った。
「今日は、そんな青井さんの酒の凄さを楽しもうと思うて、丹波から連れて来たんや」
中之島が青井の手を一瞥すると、カウンターに二本の一升瓶が置かれた。どちらも丹鶴ラベルの水色の瓶に、“26by 五百万石 純米”の木札が提げられていた。
「あくまでサンプルやけど、この二本の酒米と仕込み水はまったく同じ。酵母も10号や。しかし、不思議に味がちがう。理由は、麹の段階でちょっと工夫したそうや」
前置きした中之島が、話を青井に譲った。
「丹鶴酒造の仕込み水は、軟水ですわ。つまり、東北地方に多い穏やかな発酵を促す水と同じです。しかし、東北と丹波では土地の高さや気候がちがう。つまり気圧がちがえば、蒸し米の甑にかける蒸気の量や温度も、微妙に変わるんですわ。例えば、富士山のてっぺんで蒸す米と、海より低い土地で蒸す米では、時間のかかり方や出来栄えがまるでちがう。そこまで考えて仕込むと、同じ原料でも、ちがう風味の麹に仕上げることができます」
さっそく太郎が用意した冷酒グラスに、青井は二つの酒を注ぎ分けた。
中之島が勧めると、平と太郎は酒を利いた。途端に、二人の顔色が変わった。
「どや、これが杜氏の知恵や。装置産業と呼ばれる大量のアルコール製造とは、かけ離れた世界。青井さんは、そんな知恵を若い蔵人に盗めと説いてきた……そやけど、丹波は過疎化して若い者がおらんようになった。青井さんの右腕だった頭(かしら)も、都会の酒造メーカーに転職し、マニュアル通りの酒造りをしとるらしい」
中之島の嘆きが、ひっそりとした店内に響いた。
青井はもう一度店内を見渡すと神棚に目を止め、その前で柏手を打ち、問わず語った。
「このお店は、五年目ぐらいですか? だとすれば、この杉壁の中には店で出している酒の酵母が住みついて、日本酒にはええ環境になってますな。蔵もそうですが、建って数年しないと発酵にええ環境になりません。乳酸が居ついてくれませんのや……わしは、コンピューターや設備で酒を製造管理するのを否定してはおりません。ただ、どんな時でも生きてる酒と対話をし、知恵比べをしてきた杜氏や蔵人の姿勢を忘れんで欲しい。丹鶴酒造で育った奴らは、どこへ行っても、そうあって欲しいと思うてます」
青木のまなざしは寂しげながら、ポンバル太郎のしつらいに癒されているようだった。
平に二杯目の丹鶴を注ぎながら、中之島が口を開いた。
「実は今夜、有楽町で酒のイベントがあってな。そこに、青井さんの弟子やった頭の酒が出展されてる。わしは行ってみようやないかと誘うたが、青井さんは首を縦に振らん。ほんまに頑固な男やで」
「そのイベントなら、銀平さんと龍二君が……」
とつぶやいた平が太郎と顔を見合わせた時、玄関の鳴子がにぎやかに響いた。
かなりの酔客と思いきや、ふらつく銀平を龍二が支えていた。左手には、四合瓶を入れたビニール袋をぶら提げている。
「いやぁ~、うめえのなんの! 太郎さん、凄え酒に出会ったぜ! おろっ、こいつぁ中之島の師匠じゃねえですか。タイミングがいいっすねぇ、丹波出身の若い杜氏が造った、不思議な酒が二本あるんですよぉ」
呂律をからめる銀平だけでなく、龍二も興奮した口調で酒の袋をカウンターに置いた。
「それにしても、おもしろい杜氏さんでした。まるで気象予報士みたいで、麹造りのためにひと月先まで天気を読んでるんですよ」
堰を切ったようにしゃべる二人に中之島と太郎が顔を見合わせ大笑いすると、青井が長い息とともに満面の笑みを浮かべた。
「青井杜氏の世界は、まだまだ健在ですねぇ」
平のつぶやきへキョトンとする銀平と龍二の瞳に、丹鶴の青い酒瓶が映えていた。