チリン、チリリン……と、涼やかな音色がマチコの玄関から聴こえる。
澄んだ水色のガラス風鈴に、汗だくでやって来る客たちは、誰もがほっと表情をゆるめた。
「音もいいけど、この色がキレイだなあ。いつの間にか、加瀬さんは本物のガラス職人になっちゃたねえ」
澤井は冷酒と音色に酔いつつ、感心した表情をカウンターの中へ投げた。
松村や宮部など常連客たちの前には、しばらくぶりで加瀬俊一の顔がほころんでいる。
加瀬は七輪コンロに炭火をいこしながら、笑顔をほころばせた。
「いや、まだまだ未熟者ですよ。この風鈴だって、何度も失敗しちゃってね。ようやく納得できるものができた頃には、注文先の納期はとっくに過ぎちゃってたよ。あははは」
一年ぶりに長野の八千穂村から出て来た加瀬の声は、信州のすがすがしい空気のようだった。
「でも、そういう作品だから、味があるんじゃないの。この燻製だって、けっこう手間ひまをかけたんでしょ?」
真知子がそう言って新聞包みを開くと、飴色に燻されたイワナがどっさりと入っていた。
「うっひょう~、うまそう! これも、加瀬さんのお手製なの?」
松村は思わず立ち上がり、舌なめずりをした。その声に加瀬は親指を立てると、七輪の網にイワナの燻製を乗せた。
薄い煙が昇り始めると、カウンターの周りには香ばしい匂いが漂い、皆がクンクンと鼻を鳴らした。
「おっ……桜のチップを使ってるな。日本酒に合うんだよね、これが」
宮部が冷酒グラスを嘗めながら、嬉しそうにつぶやいた。
「さすが宮部さん、分かってますね」と、加瀬はイワナをひっくり返した。
「あれ?……何か、変な匂いが混じってない?」
ふいに、松村が眉をしかめて言った。その時「ああっ! しまった」と、カウンターの奥の席で大きな声がした。
真知子や澤井たちがいっせいに視線を向けると、早い時間から座っている若い男が、慌ててカウンターに転がるタバコをつまんでいた。
「あっちちち! 熱っちぃ~」と、男は思わず指を咥えた。
「水、水! ほら兄さん、冷やしなよ」
加瀬は目の前の蛇口をひねると、コップに水を満たした。
タバコは長い間転がっていたらしく、カウンターは焦げて黒ずんでいた。
「あ~あ。こりゃ、みごとな“お焦げ”だよ」と、覗きこんだ松村が声を高めて冷やかした。
真面目そうな男は、「す……す、すみません。あの……これ、消します。上手く削りますから、勘弁して下さい」と、カウンター下に置いていた布袋から小さな鑿を取り出した。
それを見た真知子が、カウンターを飛び出した。
「あら! ダメよ、削っちゃ」
「だ、だ、大丈夫です。僕、これでも大工の端くれっすから、キレイに削りますから」と、若い男は鑿の刃をカウンターに向けた。
間一髪、加瀬の右手が男の手首を握っていた。
「ちがうんだよ、お兄いさん……このカウンターは、削っちゃいけないんだよ」
「えっ……」
男が声を途切らせると、後ろに立つ真知子も、客たちもコクリと頷いた。
「君さ……何か、悩みごとでもあるの? 俺、さっきは冗談で言ったつもりなのに。あんなマジに取られちゃうなんて、こっちがビックリだよ」
松村は若い男の肩に、ポンッと優しく触れて言った。
「……やっぱり、そう見えますか。実は僕……見習い大工からなかなか卒業できなくて」と、男はようやく鑿をカウンターに置いた。
彼は、山田 修と名乗った。山田は父親が大工の棟梁ながら、今はよそに修行に出されて5年目になっていた。だが、いっこうに腕前が上がらず、跡取りを諦めようかとも思っていた。
今日も駅前の電気店の改装工事中に、親方から「お前なんぞ、辞めちまえ」と罵倒され、やりきれずにプイッと帰った道すがら、思わずマチコへで飛び込んでいた。
「そうか……だったら、やっぱり君の付けた焦げ跡は、ぜったい消しちゃダメだな」
横に座った松村は、不思議そうな顔をする山田に、ゆっくりと言葉を続けた。
「山田君、このカウンターをよく見てみろ。白木の肌がキレイだけどさ、ほら、あそこにもむこうにも、焦げ跡があるだろ」
松村の指さした所に山田が目を凝らすと、薄茶けて変色したり、へこむほど焦げていたり、点々と焦がした跡が残っていた。
「……わざと、残してるんですか? あれって」
「この白木のカウンターは、マチコの顔なんだ。だから、女将さんは、いつもキレイにしていたいはずなんだよ。だけどね……こんな焦げ跡やシミの一つ一つに、お客さんたちの思い出が残ってるから、大事にしてるんだ。ね!真知子さん、そうでしょ?」
そう言って松村は、照れくさそうにしている真知子へ振り向いた。
加瀬が、こんがりと焼けたイワナを、そっと山田に出した。
「例えば、君の右手の下にある焦げ跡。それは3年前……私がやけっぱちだった頃に付けちまったものだ。親爺の会社を潰しちゃってね。今でも、それを見るたび、甘チャンだった自分を反省する。いい薬になってるよ」
その加瀬の笑顔の向こうで、「こいつは私が息子と初めて飲んだ時、へべれけになっちまって、焼いちまった。いやあ、あの時はまいったね。面目なかったよ」と、宮部が頭をかいていた。
「それなら、俺の方がもっと年季入ってるぜ」と、澤井が続けた。「これこれ! この醤油のシミは、マチコの開店日に俺がやったの。ボーナス出たばかりでさぁ、同僚とグデングデンになっちゃって。調味料一式、ひっくり返しちゃったんだ」
澤井がカウンターの左端に置かれるクロスをめくると、そこの板目は褐色に滲んでいた。
「ほんと、あれはショックだったわよ。新品のカウンターに、ドバッとやっちゃうんだもの。でさ、澤井さんったら『このボーナスで、カウンターをやり替えろ』って聞かないの、もういいって言ってんのに、何度も土下座するんだもの。呆れちゃったわ」
腕組んで真知子が笑うと、「それで、ここにいつも、クロスを置いてんたのか」と、宮部はあらためてそこを覗き込んだ。
賑やかな会話に呑まれている山田に、加瀬がそっと語りかけた。
「分かるかい……このカウンターは、お客さんたちの恥や失敗を覚えてくれてるんだ。みんなそれを目にするたびに反省し、頑張ったから、今じゃ良い思い出になってる。それも、マチコの魅力なんだ。だから、山田君の焦げ跡も、きっとそうなるさ。……いつでも、ここへ来ればいい」
はっと山田は我に返り、「僕、頑張ります!」と笑顔を返した。
「ところでさ、その端っこの席は、マチコの入門口なんだ。その、加瀬さんの焦げ跡のすぐ上のは、俺のやつなんだ。みんな最初は、遠慮してそこで飲んで、常連さんと仲良くなって、だんだんこっちへ寄って来るんだ。俺も最初は、そこからだったんだ。まあ、頑張れよ!」
松村が、山田の空いた盃に酒を注ぎながら、自慢げに言った。
「へぇ~。和也君、えらく先輩風を吹かすわね。それじゃ、山田君のいい御手本に、あんたにもう一度、ここへ座ってもらおうかな。自分の焦げ跡をじっくり見て、初心に戻りなさいよ」
真知子は、「あ? え?」と目を丸くしている松村にかまわず、席を入れ替えた。
「じゃあ、今夜の和也君には、こいつだね」加瀬が黒く焦げたイワナを、松村の前に置いた。
「ちえっ……そんなのないよぉ。うっ! ニゲェ」とイワナをかじる松村を、宮部が「よっ! 苦みばしったイイ男」と冷やかした。
白木のカウンターに、男たちの屈託のない笑顔が揺れていた。