Vol.77 ツバメ

マチコの赤ちょうちん 第七七話

夕暮れの通りに、シャッシャッと涼しげな氷屋のノコギリ音が響いている。
額に汗した男たちは、ほっと表情をゆるませてマチコの暖簾をくぐったが、チッ……チチチと聞こえる小さな音に、思わず頭上を見上げていた。
軒下にくっ付いているツバメの巣に、男たちは「へぇ、いつの間に」とか「子ども、大きくなってるじゃん」などと、口々につぶやいて格子戸を開けた。
どこかほのぼのとした雰囲気で入って来る客たちに、カウンター席の津田も嬉しそうだった。
「皆さん、ええ顔してはる……ツバメのおかげやなぁ。巣がでける家は、幸せになるちゅうから、真っちゃんもひと安心やな」
「去年までは、ツバメが来るなんて思いもしなかったわ。私自身、5月まで、ぜんぜん気づいてなかったの。お客さんが『女将さん、あれイイねえ~。懐かしいなあ』って言うんだけど、最初は何のことか分かんなくて。でも、日増しに、みんなの顔がほころんでるのよね」
真知子はそう答えると、思い出したかのように玄関先へ歩いた。津田はその横顔に、少女のようなあどけなさを見た気がした。
真知子が格子戸をカタリと開けると、男が巣を見上げていた。
白髪混じりの男は真知子に気づいていないのか、親鳥がヒナに餌を口移しするようすをじっと見つめていた。
「……いらっしゃい」と真知子が小さく言うと、男はハッとした顔で「あっ、お邪魔して、すみませんな」と会釈した。
どうやらマチコにやって来たわけではなく、通りすがりにツバメの巣を見つけたようだった。
「ほんとに、カワイイですねぇ」と真知子は愛想をしたが、男は「ええ……」とためらいがちに相槌を打った。
真知子は、どこか寂しげな男の雰囲気を感じた。
「あの……一杯、いいですかね」と、男は気遣うように言った。
「ええ、どうぞ」
真知子の笑顔に、男ははにかみながら格子戸を入ると、津田の二つ隣に腰を下ろした。そして真知子に冷酒を頼むと、もう一度、玄関の方を振り返っていた。
「あくせくした時代でっけど、ああいうのを見ると、心が潤いまんなぁ」
津田のやんわりとした言葉に、男だけでなく、回りの客たちもコクリと頷いた。
「昔は、巣がたくさんありましたねえ。田舎の家じゃ、あちこちにくっ付いてた。九州では、2月になるとツバメがやって来てましたよ」
男はおしぼりで顔を拭きつつ、問わず語った。
「ほぅ……あんさん、九州のご出身ですか?」
津田が銀縁メガネを指で上げつつ、男に訊いた。
「ええ……鹿児島です。でも、もう忘れてしまいました」と、男は声をすぼめながら答えた。
そう言いながらも、男はもう一度立ち上がって、巣の方へ歩いた。
男が格子戸を開けると、今度はスーツ姿の若い客が巣を見上げていた。
「あっ、すみません」とスーツの男は白髪の男を見たが、途端に「あっ!あああー」と叫び声を上げた。と同時に、白髪の男が「おっ、お前。一雄か!」と声をもらして立ち竦んだ。
若者は顔を引きつらせ、白髪の男は視線を落としたままだった。ツバメの小さな囀りが、張り詰めた雰囲気を解きほぐすように聞こえた。
「ちょっとワケありのようですな……ここで睨み合うてても、ツバメが落ち着かへんやろ。お二人とも、中へ入りまへんか」
津田が近づいて二人を店内に入れると、心配そうに見ていた真知子は空いているカウンターの奥に案内した。
二人はぎこちなく、席に腰を下ろした。
しばしの沈黙の後、白髪の男が津田に言った。
「あの……私は鳴瀬と申します。こっちは……私の息子で、一雄と言います」
男の挨拶に、若者は気まずそうな表情で小さく頭を下げた。
「どうも、津田です」
津田はそう言うと、それっきり口をつぐんだ。
鳴瀬親子は、真知子が運んだ冷酒を前にしてじっと黙り込んでいたが、一雄はしびれを切らしたのか、口を開いた。
「俺……東京に来て、もう15年になるんだ。久しぶりに、ツバメの巣を見たよ。……しばらく店先でぼうっとしてたら、ガキの頃の思い出が甦ってた。そしたら、まさか、あんたに合うなんて……ツバメは幸せの鳥だなんて、やっぱり嘘っぱちだよ。俺には、不幸を持って来る疫病神だ」
一雄はぐいっと盃をあおって、吐き捨てるように言った。しかし。鳴瀬は黙ったまま、カウンターをじっと見つめていた。
「何か言ったらどうなんだよ……お袋と俺を捨てた侘びとか、無いのかよ」
声を昂ぶらせる一雄に、カウンター回りの客が話し声を低くした。
鳴瀬は、凍りついたように動かなかった。
「あの……鳴瀬はん。よかったら、熱いの一杯どうでっか。その方が、口も温もりまっしゃろ」
その声に鳴瀬が振り向くと、津田が徳利を手にしていた。鳴瀬は一瞬ためらいを見せたが、津田の優しげな目を見返すと、ふっと顔を和ませた。
「……ありがとうございます。じゃあ、頂戴します」
そう言って、鳴瀬は静かに盃を空けると、20年前に鹿児島から妻と息子を捨てて東京へ出て来たことを、津田に語った。
途切れては続く鳴瀬の言葉に、津田は小さく頷いていた。
一雄は冷酒グラスを手にしたまま、遠い目をして聞いていた。
「私は、甘い若僧だったんです。鹿児島の家で、飛んで行っては帰って来るツバメを見ながら、毎日、職場と家庭を往復するだけの生活が嫌になりましてね。……でも、いざ一人になってみると、それが一番幸せだったんだと分かって……ずいぶんと悔やみました。さっき、お店の前を歩いていて、ツバメを見た時、その思いがまた繰り返して……」
鳴瀬の声は、小さく震えていた。
一雄は何か言おうとしたが、それをぐっと飲み込んでいた。
押し黙る二人に、真知子がゆっくりと語った。
「お二人とも、ツバメを憎んでますか? 私、あのツバメは、やっぱり幸せを運んで来たんだなって思います。……お二人を、逢わせてくれたんだもの。……だから、不幸は今日で終わり。明日からは、きっと幸せが来るはず」
その言葉に、津田が「そやな」と言って、鳴瀬と一雄に酒を注いだ。

一雄は、鳴瀬の横顔をじっと見つめていた。
「俺、子どもが二人いるんだ。今じゃ、忙しいツバメだよ。……だから、あの頃の親爺の気持ちが、ちょっとだけ分かる気がした。……それと、お袋はまだ親爺を待ってるよ。あの巣のある家で」
鳴瀬の頬を、光るものが滑り落ちた。
その時、チチチッとマチコの玄関から、愛らしい声がした。
そっと鳴瀬に酒を注ぐ一雄の姿に、真知子と客たちが笑顔をほころばせていた。