通りをブラリブラリと歩いて来る津田が、植え込みの薄い紫陽花に目尻をほころばせた。
その右手は、大事そうに一升瓶を提げている。察するに極上の酒らしく、どことなく津田の足取りも軽やかに見えた。
夏至も近いせいか、午後6時の通りが、津田の太った体型とは思えない長い影を映している。
ところが、マチコの前に着くと、津田の靴がはたと止まった。
「あら?……臨時休業でもしたんやろか?」
独りごちる津田は、どこにも見当たらない赤提灯に眉を八の字にした。
試しに玄関の格子戸を引いてみたものの、鍵がかかりカタリとも音を立てない。
しかし、背伸びして摺りガラスの上から覗いてみれば、カウンターの花瓶やテーブルの調味料など、店を開ける気配がどことなく漂っているのだった。
その時、背後から聞き慣れた声がかかった。
「おっと! 津田さんじゃないの、こんばんわ」
澤井の大きな声に、爪先立っていた津田は思わずドキリとした。
「おっ、おっ、ととと!」とよろめく津田をとっさに澤井が支え、手から抜け落ちた一升瓶は間一髪、松村にキャッチされていた。
とたんに、「ナイスキャッチ!」と彼らの後ろから声が飛んだ。
三人が同時に振り返ると、真知子が手を叩いて喜んでいた。その隣りには、草色の作務衣を着た高齢の女性が立っている。
おどけてガッツポーズを取る松村の横で、「真っちゃん。ビックリするがな!今まで連絡なしに臨時休業することなんて、なかったさかいな。ところで、提灯はどないしたんや?」と、津田は少し声を高ぶらせた。
「ごめんなさいね。実は、おとといの夜に破れちゃって。こちらの矢口ハツ江さんに修理してもらって、直ったばかりなの」
真知子がそう言うと、隣りの白髪混じりの女性が大きな風呂敷包みを差し出して、三人に深々とお辞儀をした。
「……このたびは真知子さんだけじゃなくて、お店のお客様にもご迷惑をおかけして、申し訳ございません。私の愚息がバカな事をしでかして……提灯屋ともあろう者が……真知子さん、本当にごめんなさいね」
矢口という女性は、萎れるように深いおじぎをした。そのようすに松村と澤井はキョトンと顔を見合わせ、津田はワケありを察して黙り込んでいた。
「ハツ江さん……もう、済んだことですから。あの、提げてみますから、お店の中で休んで下さいな」と真知子は格子戸を開錠し、みんなを店内へ入れた。
真知子が吊るした提灯は以前とほとんど変わりなく、目を凝らしてみると下部にうっすらと切り貼りした跡が残っていた。
「へえ……たった1日半でキレイに直せるんだなあ。でも、真知子さんの提灯は、確か美濃和紙を貼った手造りだったでしょ。機械製品と違って、直すのも相当の熟練が必要じゃないの。……これ、矢口さんがされたんですか?」
澤井が感心した顔で、テーブル席に座っているハツ江の手を見つめた。
その指先には、白い糊粉がふいていた。
「ええ……お粗末ですが」と、ハツ江は言葉を慎んだ。
「ふーん」と修復箇所に見入っている松村の後ろから、真知子が言った。
「ハツ江さんのお宅は、代々、提灯師をされててね。この町の鎮守様や御稲荷さんの提灯を作ってきたの。でも、7年前にご主人を失くされてしばらく休業してたんだけど、宮司さんや町の皆さんが、『やっぱり矢口さんのでなきゃダメだ』ってお願いするもんだから、ハツ江さんはご主人の仕事を思い出しながら再開して、今年目で5年目。ただね……一緒に作っている息子さんは2年前に継いだばかりで、まだ24歳なの……」
真知子が遠慮気味に言葉を切ると、ハツ江は「絵付けを辛抱できずに飛び出して、しかも、こちらの赤提灯に八つ当たりして、裂いてしまうなんて……みっともなくて……うちには提灯屋の暖簾を揚げる資格なんて、ありません。ですから、この夏祭りの仕事で終わりにしようと……」と声を詰まらせた。
「そういう事だったのか……」
松村が修復した提灯の肌を触りながらつぶやくと、ふいにその指の横へ、津田のゴツイ指が置かれた。
「矢口さん。……そら、あきまへん。この提灯は、もういっぺんやり直してもらわな。今、辞められたら、困りますねん」
津田は、ハツ江の潤んだ瞳をまばたきもせず、じっと見つめた。
「そんな、津田さん。ちゃんと直ってるじゃないの、どこが……」
真知子が口を尖らせると、津田は強い語気で続きをさえぎった。
「いいや! 直ってへん。見た目には遜色無いが、よう見てみい。ほれ、こことここの竹ひごの間が、若干違うやろ。ちょっとずつ、ひごがたわんでんねん。今は直ってるように見えても、その内、湿気や乾燥で、形がいびつになった時、不細工な提灯になるんや!」
歯に衣を着せない津田の指摘に、ハツ江は顔を真っ赤にしてうつむいた。真知子や澤井たちも口を閉じてしまい、店内は沈黙に包まれた。
「ハツ江さん……息子さんは、まだ基本中の基本段階ですがな。早う一人前にしよう思うて、焦ってまへんか? 塗りやら、絵付けやら、難しいことばっかり詰め込んでもあきまへんで。要は、骨組みをしっかりさせなあかん。人作りも同じでっしゃろ。それに、あんさんかて5年目。まだまだ、これからや。息子さんと一緒に学んで、コツコツと頑張りなはれ。そうしとる内に、矢口家の提灯の新しい骨がちゃんとできて、やがて、ええ血と肉が身に付くはずでっせ。赤提灯であっても、あんさんの旦那はんなら、中途半端なもんは納得せえへんのとちゃいまっか?」
津田の声がじんわりと響くと、ハツ江は静かに立ち上がって答えた。
「……おっしゃる通りです。私、どうにかしなきゃって、焦ってばかりで。もう一度、最初からやり直してみます……今、津田さんのお話しを聞いて、ふっと、いつか主人に教えられた言葉が聞こえたんです。『提灯作りは血の通った人間でなければできない、“人の絆”を護る仕事だ。私やご先祖様の作ってきた鎮守様の明かりは、人の願いを照らし、人の喜びを包み、人の悲しみを癒してるんだ。そして、それは赤提灯も同じなんだよ』って」
「じゃあ、赤提灯は“赤い絆”か……いい響きですね」
澤井の声が、しんみりした雰囲気を明るくした。
「じゃあ……提灯を点けてみましょうか」と真知子が言うと、四人は玄関に集まった。パッと朱色の灯りが灯ると、松村がそれに続いて言った。
「赤い絆は、マチコにもありますよ。お客はみんな、この提灯のおかげで元気いっぱい、楽しい人生でしょ! 赤い灯、窓から見える夕焼け、酔った赤ら顔……ほら! 赤がいっぱいじゃないすか!」
「ええこと言うてるみたいやけど……まあ、単なる“酔っ払い”ちゅうこっちゃな」
津田のツッコミに笑いが起こり、ハツ江の表情も和らいだ。
西の空からの夕風がその笑い声を運び、赤提灯の色とともに、一人また一人と、今夜も男たちを誘っていた。