Vol.75 いしる

マチコの赤ちょうちん 第七五話

シュッ、シュッと真知子の手にする柳葉包丁が、半透明のイカの身を薄い刺身にしていく。火にかけた網の上では先にさばいたゲソが炙られ、パチパチと香ばしい音を立てている。
「うひょう! うまそうだね~」
店に入って来るなり、カウンター越しに覗き込む澤井と松村が声を合わせた。
「今朝獲れたスルメイカよ。うん! こりゃ甘~い」と、真知子が切り身を味見しつつ言った。
一人、二人と暖簾をくぐる男たちも、その匂いに「おっ、焼きイカか。となりゃ、今夜はぬる燗だな」と顔を見合わせた。
「あー、もう我慢できない。ひと口だけ味見させてよ」
まだ腰を下ろしてもない松村は、真知子がつまんだ身に手を伸ばした。
「コラッ! 行儀が悪いわね。それに、まずお出しする人は決まっているの」
真知子は松村の指を箸でピシャッと叩くと、カウンターの奥まった席に向いて「すみません、佐々木さん。もうすぐできますから」とほほ笑んだ。
その視線の先には、高齢の男が座っていた。男の後ろには、釣竿入れらしきバッグとクーラーボックスが置かれている。
「いやいや。かまいませんよ、女将さん。先に、召し上がってもらって下さい」
佐々木という男は、「どうぞ」と手を動かして松村と澤井に勧めた。
「あのう……ひょっとして、これ、あなたが釣ったイカですか?」
遠慮気味に訊ねる澤井に、佐々木は「イカにも……なんちゃって」と赤面しながらダジャレを返した。
すると、松村と澤井はため息を吐いて、沈黙 してしまった。
「佐々木さん、それはイカさないわ。あらっ、私もダメねぇ」
場を取り持とうとした真知子も、自分でボケながらツッコンでいた。
しかし、その呆れたような空気が客たちの笑いを誘い、「こっちもイカをおくれ」とやたら賑やかになった。
新鮮なイカづくしに舌つづみを打つ男たちは「いやあ、ご馳走になっちゃって」「美味しいですねえ。どこで釣ったんですか?」と、佐々木に礼を述べつつ、酒を注ごうとした。
佐々木は丁重に答えながら「あ、ゆっくり飲りますから。お気遣いなく。ありがとうございます」と、お酌を遠慮していた。その姿からは、控え目な佐々木の性格がうかがえた。
佐々木のようすを見つめる松村たちに、真知子が問わず語りした。
「佐々木さんは、最近、富山から私のマンションに引っ越して来たの。お隣さんよ。息子さんが地元で長い間入院していたけど、東京の病院に移ることになったの。奥さんは2年前に亡くなって、一人暮らし。その頃から、お酒は控えるようになったそうよ。今は、定年退職して年金生活、唯一の趣味が、富山にいた頃からの釣りなんだって。それで、昨日は久しぶりに富山まで行って、深夜からイカ釣りをしてきたらしいの。たくさん釣れたからどうぞって、わざわざ店まで持って来てくれて。せっかくだから、料理を食べてってもらおうと思ったの」
真知子は、佐々木に優しいまなざしを送っていた。
「ふーん……ところで、息子さんの病気って何なの?」
松村の問いに真知子はふっと表情を曇らせ、「……記憶喪失らしいの。自動車事故の後で、そうなったみたい」と声を低くした。
「えっ!」と言ったきり声を無くした松村の横で、澤井が冷酒グラスを持ったまま、つぶやいた。
「そうかぁ……慣れない都会暮らしに難病の世話って、大変だろうな。釣りが、つかの間の休息ってわけだ」
一瞬、三人の会話が途絶えたが、「あっ! 忘れてた!」と真知子は慌てて鍋をかけているコンロの火を消した。
ほんわかとした湯気の中に、イカと大根の煮物ができていた。
真知子は、それを白い鉢へ上品に盛り付けると「お待たせしました。お口に合えばいいんだけど」と佐々木の前に置いた。
「おお……美味しそうですなあ、この匂いもツヤも。じゃあ、遠慮なく頂きます」
佐々木は両手を合わせると、イカをゆっくりと口に入れた。すると、次の瞬間「あっ!」と声を洩らした。
「自家製の“いしる”を使ってみたんですけど……合いませんか? やっぱり、富山の物とは違いますか?」
真知子が自信なげに、黙りこんでいる佐々木へ訊いた。
「いいえ、真知子さん……その逆なんです。同じ味なんですよ、かつての我が家のいしると。もう家内がいないので、造れませんが……今、私の頭には、昔の記憶がはっきりと映っていたんです。……小さかった息子や家内と、家族で釣りに行ったあの日……ここ数年、そんなことを思い出すこともなかった」
佐々木は箸を持ったまま、一点を見つめて言った。真知子も返事をためらい、口を閉じたままだった。
「あの……その煮物、息子さんに食べさせてあげたら、いいんじゃないですか」
ふいにかかった松村の声に、佐々木と真知子が「はっ!」と視線を合わせた。
「そうだな、ひょっとしたら記憶が……可能性はあるかもな。佐々木さんの今さっきの話しからすれば」と澤井が続けた。

その声にコクリと真知子がうなずくと、佐々木は少し目を潤ませて答えた。
「そうします。でも……ありがたいですねぇ。真知子さん、ここには優しい皆さんがそろっていらっしゃる。東京に来て、初めて、ホッとしましたよ」 「じゃあ……もうちょっとだけ、飲みましょうか」
そう言って、真知子は佐々木の徳利を手にした。
「そうですな……いい思い出に、ひたらせて頂きます」
盃を持つ佐々木がふと見ると、松村と澤井も「今夜は、いい夢を」と冷酒グラスを掲げていた。