ゴールデンウィークが終わり、男たちの懐は寂しくなっているはずだったが、ここ数日のマチコはカウンター席に常連客、テーブル席は会社帰りのグループと連日賑わっていた。
予想に反した満員御礼の状況に、真知子は嬉しい悲鳴ながらも、少し疲れ気味のようだった。今日の買出しでは普段よりも汗をかいたし、ビニール袋がいつもより重く感じられた。
それでも常連たちが顔を見せると、やはり気合の入ってしまう真知子だった。
今夜も開店早々に津田と松村がやって来るや、ぞろぞろとテーブル席も詰まり始め、奥の小座敷には子ども連れの夫婦が上がった。真知子は、あちこちの客に注文を聞いて回っている。
「あっちゅう間に、いっぱいになってもうたなあ。東京人は、そない儲かってんのかいな。なあ、和也君。貧乏な大阪人に、一杯おごってんか」
津田は冷蔵庫の純米大吟醸を見ると、ニヤリとして松村の肩を突いた。
「えっ? あっ、俺には関係ないっす。だって津田さん、儲かってりゃ、よそに行っちゃいますよぉ。六本木とか赤坂とか」
松村は、声をぐっと小さくして答えた。途端に真知子の声が、顔を寄せ合う二人の間を割った。
「ちょっと、お二人さん。今の会話は聞き捨てならないわね。じゃあウチは、貧乏人の来る店だっての? あん?」
「あっ、いや、ははは……」と松村がしどろもどろになれば、津田はそ知らぬ顔で「えーと、今日は阪神-巨人戦やったなあ」とスポーツ紙を開いた。
真知子は、そんな二人に「ふっ」と笑いをこぼして厨房に入ると、山となっている洗い物に取りかかった。と同時に、手から皿が抜け落ち、床で真っ二つに割れた。
大きな音にカウンターの客たちが視線を向けると、真知子がしゃがみこんでいた。
「おい!どないしたんや! 真っちゃん」
「真知子さん、大丈夫!?」
驚いた津田と松村が声を発すると、真知子は「だ、大丈夫よ。ちょっとふらついただけだから」と、ひと呼吸して立ち上がった。
「ちょっと座っとき。わしが代わったろ」と津田は言ったが、真知子は「いいの、自分でやるから」とシンクに手を突っ込んだ。
テキパキと洗い始めた真知子のようすに、客たちは安心したのか、また場が盛り上がり始めた。
その時、真知子の耳に女性の声が飛び込んできた。
「真っちゃん、ダメ! お行儀が悪わよ」
ふいに聞こえた声に、真知子の手がピタッと止まった。
客たちの会話の隙間から一瞬聞こえた言葉は、また、賑やかな空気にかき消された。どうやら、一番奥の小座敷にいる家族連れの声のようだった。
しばらくの間、真知子はぼうっとして客席を見つめていたが、出しっ放しになっている蛇口に、はっと我を取り戻した。
「どうしたの? 変だよ、真知子さん。本当に大丈夫?」
目の前のカウンター席に座る松村が、小首をかしげた。さっきの声は、松村には聞こえていないようだった。
「ううん、何でもないの……疲れてるのかしら。もう、私もオバサンだもんね」
真知子は今しがたのめまいを隠すように、前掛けの腹を叩いておどけた。
すると、またもや「真っちゃん! ちゃんと食べなきゃダメよ」と声がした。
「……やっぱり……母さんの声にそっくり」
しだいに遠い目になっていく真知子に、松村は「あ、あの……」と口をつぐんでしまった。
すると、黙っていた津田が「よっこらせ」と腰を上げて、上着を脱いだ。
「どれ。ワシがやるから、真っちゃんは空いてる席で休んどき」
津田は目で奥のテーブル席を指すと、真知子を厨房から追い出した。
真知子は、気になっていた家族連れの近くに座った。その客は若い夫婦と小さな女の子で、母親はきちんと食べない娘に手を焼いているようだった。
「今日は、母の日の代りに食事しに来たんでしょう。真っちゃんは、お母さんに意地悪するために来たの?」
その声は亡くなった母に本当に似ているなと、真知子は思った。
娘の髪はポニーテールに束ねてあって、イヤイヤをするたび、たおやかに揺れた。そして、膝にすがりつかれた母親は「ほんと、しょうがない子ね」と、その黒髪を撫でた。
真知子には、娘の姿が幼い頃の自分と重なって見えた。茶の間で母の背中に抱きついた時の匂いが、ふっと脳裡に甦った。
いつの間にか胸が熱くなって、その親子をじっと見つめていた。
「あの……何か?」
真知子の視線に気づいて、母親が言った。
「あ、あら、ごめんない。可愛いお嬢ちゃんだから、つい見とれちゃって。……お名前は何って言うの?」と真知子は娘に訊いた。
娘は「真由」と恥ずかしげに答えると、父親の膝の上でデングリ返しをした。途端に、彼女の足が卓上の器をひっくり返し、畳に醤油がこぼれた。
「あっ、何やってんのよ、もう! 女将さん、すみません」
母親は娘の足を叩くと、すぐにおしぼりで畳を拭いたが、シミは濃かった。
「あらあら、かまいませんよ。後で取りますから」と、真知子は器とおしぼりを下げた。
それから客たちが一組、二組と順番に帰り始め、その一家が帰ると、店は津田と松村だけになっていた。
真知子は洗い物を津田に任せ、テーブル席を片付けた。
小座敷へ醤油のシミを拭き取ろうと上がった時、畳の上の赤いものが真知子の目に止まった。
「あっ……カーネーション。そうか、あの子がお母さんに……」
その花びらが、真知子の目からじわりと涙をあふれさせた。なぜだか分からないが、切なくて温かい感情がこみ上げ、小さな嗚咽さえもらした。
「どうや……ちょっとは、気分が楽になったか」
気づくと、後ろには腕まくりした津田が立っていた。
「私、どうしたんだろ。こんなの初めて……情けないわね。あっ……洗い物をありがとう。もう、終わった?」
真知子は、前掛けで目を押さえながら言った。
「いや…さっき、和也君が替わってくれたんや。真っちゃん、見てきてくれちゅうてな」
津田は赤い花びらを指先でつまみ、真知子の手のひらに置いた。
「きっと、天国のお母ちゃんが『ちょっとは休みや』て、言うてはんねん。あんまり無理せんと、な、真っちゃん」
津田の言葉に真知子はコクリとうなずいて、つぶやいた。
「でも、家族っていいよね。温かくて、懐かしくて……」
「ここには、真ちゃんの家族がいっぱいいてるやないか……忘れたらあかんで」
津田の大らかな笑顔が、真知子の瞳の中で柔らかくにじんでいた。