「がっはは。どうだっ!水野、俺の言った通りだろ。困ったら、何でも相談しろよ」
ドラ声が、マチコの窓ガラスを震わせた。声の主は、マチコの客の中では、まだ若い水野が連れて来た上司だった。
水野は、他のマチコの常連たちに気を遣った。だが、恰幅のよい上司は気にもかけず、長舌を振るい続けた。そして、ひとしきり自慢話しをすると「それじゃあ、また明日な」と水野の肩を叩き、帰って行った。
「ふうっ……まいった」
肩を落とす水野に、真知子は冷酒をお酌した。
「おつかれさま、大変ね。でも、心強いじゃないの。親分肌の人だし」
「真知子さんにも、そう見えるんだ」
「えっ、そうじゃないの?」
水野が言うには、その上司は、度量があって面倒見も良さそうに見えるのだが、彼の「何でも俺に相談しろ」は、上役の見ている前で頻繁に繰り返される技だった。実際、その気になって話しを持ちかけると、多忙を理由に断られるばかりだと言う。
「確かに『何でも俺に持ってこい!』と言うのは簡単やけど、それをほんまにするのは、そら大変やと思うなあ」
水野の後ろに座っていた常連の津田が、酔いの回り始めた関西弁で言った。
「きっと今帰ったお人も、ほんまは、そないに思うてはるんや。けど、でけへん。でけてへんのは、自分が一番よう分かってはる。だから自慢しはるんや。それを周りの人と一緒に、自分にも言い聞かせてんねや。そこらへんを若い部下のほうでも、ちょっと分かったらなあかん。一番さびしいのは、あの人や」
「どうして、そんなこと分かるの。あんなに自信満々に喋ってたじゃない」
真知子は津田の真意を解せず、酔っ払いをたしなめるような口調で言い返した。
「マっちゃん。歳を重ねると、男の性根は背中に出まんねん。酔っ払いの薀蓄より、黙って飲んでる奴の背中に教えられることのほうが多ないか?言葉やないねん。女将のあんたなら分かってるもんやと思うてたけどな。ここのお客さんには、そんな人が多いやろ」
真知子は込み上げる恥ずかしさに、口ごもっていた。いつものように、右手を軽く上げ暖簾をくぐって行く津田を、無言で見送った。
「もっと勉強しいや」と語るその背中に、真知子は「まいど、ありがとう」と胸の中でつぶやいた。