Vol.6 ひたむき

マチコの赤ちょうちん 第六話

 「辻野部長。俺、辞めます」
盃を飲み干した北村が、きっぱりと言い切った。
今しがたまでの和んだ空気が、突然途切れた。
白髪を目立たせる辻野は、無言のまま、熱燗の湯気を口元に移ろわせていた。
いったい何があったのか。こんな不況のさなか、会社を辞めると言う北村に、真知子は唖然として包丁を止めていた。
二人は開店当初からの客だった。三十過ぎの北村と定年前の辻野は、いつも一緒に酌み交わしていた。屈託のない友人のような間柄は上司と部下には見えず、マチコの常連たちが羨むものでもあった。
「そうか、行くか……。潮時かも知れねえな」
引き止めもせず、あっさりと納得する辻野に、真知子は戸惑った。
持ち前のお節介な性格から、真知子はつい口を挟みそうになったが、それを察する辻野の穏やかな笑みで制された。
「十二年間、今まで部長に教えて頂いたこと……俺、忘れません。あの時の言葉、これからもずっと大事にして行きます」
若々しさと自信に満ちた北村は深々と頭を下げると、マチコを後にした。
「いいの? 辻野さん」
冷めた酒を黙って口にする辻野に、真知子は訊ねた。
「酒のことか、それとも、あいつか?」
「何、バカなこと言ってんのよ。決まってるでしょ!」
語気を高める真顔の真知子へ、辻野は穏やかに答えた。
「あいつ、ずいぶんと頑張ったんだ。うちみたいな小さな機械メーカーで、ひとり気を吐いて、営業の若い奴らを引っぱって来た。勢い余って社長にまで、突っ張って行きやがった」
兄貴タイプで向上心の強い北村は、その後ものんべんだらりとした上層部批判を繰り返した。そんな北村を、辻野は製造現場からじっと見つめていた。
「うちの会社には、理不尽や不条理が多すぎると、あいつは吼えた。でも、その時のあいつは、何が一番大切なのか、まだ分かっていなかった」
いつの間にか聴き入っている客たちの中に、真知子の声がした。
「その時、何て……」
「まだ早い、待つんだと。時を待つことは、時を作ること。辛抱して、ガマンして、いろんな理不尽を身体でおぼえることで、世の中が分かってくる。ひたむきさは、いつか日なたに向くってことだと。そう、言ったんだ」
辻野は、自分の過去を北村に語っていた。

若い頃から職を転々とし、いつも陽の当る場所ばかり追いかけていた。しかし、結局は輝きを手にすることなく、この職を最期とする身になった。 「お天道様は、追いかけるものじゃねえ。またいつか、自分の上にめぐって来るんだ。でも、今のあいつの上にあるお天道様は、もっと大きな光を放っている気がするんだ」
北村の門出に、辻野は一人盃を掲げた。
「辻野さんもひたむきだったね……北村さんのために」
真知子が、ポツリとつぶやいた。
店先の植木鉢のひまわりが、赤提灯に映えていた。