「真知子さん。こちらは今度うちの支社に転勤して来られた、小野山次長」
襟を正してかしこまる松村は、緊張した面持ちで、浅黒いガッシリした体格の男を紹介した。年齢は45歳前後。頬には中年皺が見えるが、眼つきは鋭かった。黒っぽいスーツ姿と左手首の銀色のロレックスに、やり手の広告マンの匂いがした。
「ようこそ、いらっしゃいませ。真知子です」
いつにない松村のようすを察した真知子は、少し慇懃におじぎをした。
「よろしく……」
カウンター席に腰を下ろしながら小野山はそっけない返事をすると、ジッポーでタバコに火を点けた。
一瞬遅れた松村のライターを小野山は「ふっ」と鼻で消して、「ぬる燗を」と真知子に注文した。松村の顔がさっと蒼くなった。
「何年目だ?」
小野山のふいの一言に、横に座った松村だけでなく、カウンターの水野や澤井たちがキョトンとした。
「え?」と洩らした松村の顎を、小野山は「お前のことだよ」と指で弾いた。
「いちっ!」
「鈍いな。そんなことじゃ、第一線のプロデューサーは無理だ。今のうちに、次の会社を探しておいた方がいいぞ。なんなら、紹介してやろうか」
辛口の言葉に、水野たちの会話が途切れた。
「どうも、お待たせいたしました」と、真知子は少し声を太くして徳利を置いたが、小野山は悪びれることもなく、燗酒を自分の盃に注いだ。
「飲むか?」
唇を噛んだままの松村へ、小野山は平然と訊いた。
人を喰ったような小野山の態度に開き直ったのか、松村は受けた酒を飲み干すと、いつもの口調で言い返した。
「僕、回りくどいのは嫌いなので、この際はっきり聞きたいです。小野山次長が、実はリストラ工作のために支社を変わってるって、本当ですか?」
「だとしたら? どうなんだ」
小野山は口から盃を離すと、厨房の湯気を見つめたまま答えた。
「あなたのやり方は汚いって、もっぱらの噂です。5年前、派閥争いで出世ラインを外されたことを逆恨みして、役員の女性スキャンダルを暴いたり、裏金取引の現場を押さえた。それが会長に気に入られ、懐刀のようになったけど、去年会長が亡くなって、息子の社長にすれば、知りすぎた邪魔者。でも、また返り咲こうと、社長に近づいて今度はリストラで名を挙げようとしてる。でも、失敗が続いているって……。当初は、広告営業一直線の熱血ディレクターだった……うちの支社長はそう言ってますが」
松村はスッキリしたような表情で、タバコを一服した。
紫色の煙が、小野山と松村に縺れながら格子戸の隙間を抜けて行った。
小野山は、何も答えずに盃を飲み干した。
「……あの、失礼ですが。小野山さんって、ノンプロの太陽ベアーズのエースだったでしょう?」
カウンター脇の澤井が声をかけると、小野山の肩がピクンと反応した。
「えっ! ノンプロって……野球選手だったんですか?」
松村が口を丸めて訊ねると、小野山は「もう、忘れたよ」とぶっきらぼうに答えた。
「左腕からの、伸びのある重い直球が武器だった。プロのスカウトも目を付けてたよ。でも、昭和62年の準決勝、スラッガーぞろいの相手チームは9回裏に入って直球を見切ってきた。そこで、変化球を投げ、サヨナラホームランを浴びた。『勝とうとして逃げた、甘い球筋。直球勝負で行くべき』って、新聞には書かれた。……ファンだったから、憶えてますよ」
少し皮肉めいた口調で澤井が語ると、横の水野が「へぇ」とつぶやいた。
「うちの会社に入る前のことか……」
松村は小さくつぶやき、小野山の横顔をじっと見つめた。
「和也君が、中学生の頃ね」
真知子がさりげなく、空になった小野山の盃に酌をした。
「何が言いたい……松村」
小野山の顔は、正面を向いたままだった 松村は答えるのをためらった。しかし、真知子からの真っ直ぐな視線が、彼の口を開かせた。
「真っ向勝負せずに、また、逃げてるんじゃないですか。今も中途半端な変わり身で、生き延びようとしている。どうしてストレートに生きないんですか?うちの支社のリストラが最後のチャンス、これに失敗したら、次長がお払い箱になるから?」
「……それ、誰に聞いた?」
小野山は低い声で訊いて、タバコを灰皿に捻り潰した。
「誰でもいいでしょう、そんなの」
松村のしっかりとした口調には、一歩も引かないという気持ちが現れていた。
厨房のヤカンの噴く音が、静まったカウンターに響いた。
「世の中、緩急自在な奴がうまく生きて行くんだ。それを、俺は野球でも、この仕事でも思い知ったよ。お前だって、かわして、すり抜ける要領を身につけえなきゃ、先は見えてる」
「そうかしら?」
真知子の声が、盃を持とうとする小野山の手を止めた。そして、茶色の四合瓶と冷酒グラスが、スッと彼の前に置かれた。
「この蔵元、ずっと昔からこの辛口だけなの。小さな蔵元だから、新しいお酒のブームが来ても、いろんな商品を求められても、頑固にこれ一本。当然、苦しいですよ。でもね……その生き方を知ってる人には、愛されてるの。真っ直ぐに、全力で造っているから」
真知子の白い手が冷酒グラスを酒で満たした。
小野山は、「ふぅ」と小さく溜息を吐いて、グラスを傾けた。
「……俺は、いろんな手段であれこれ仕組んでいるうちに、自分を素直にぶつけてくる奴が苦手になった。この酒みたいに、どっしりと味のある、主張のある人間を避けた。自分から、嫌われ者になっちまった。野球を辞めた時、もう逃げないと決めたはずだったのにな」
長い沈黙が、見つめる男たちを包んだ。無意識なのか、小野山の左の掌が、開いたり結んだりしていた。
「次長……この9回裏は、もう逃げないでください。うちの支社では仕事一筋、直球を投げてくれませんか。それで、結果を出しましょうよ。僕が、真正面から受けます」
松村が、右こぶしを左の掌にパンッと当てた。
「ふっ……俺のストレートは、若僧にはキツイぞ」
小野山が、冷酒グラスをゆっくりと松村に渡した。満たされた酒が、ようやく男たちの笑い声に揺れていた。