「おっ、やっとる、やっとる。加瀬はん、お久しぶりでんな」
ほほ笑みながらマチコに入って来た津田の白髪が、エンジ色の麻のジャケットに似合っていた。
その姿は厨房に立つ作務衣の加瀬とは対照的だったが、二人の間に漂う職人らしい雰囲気は、水野や澤井たち、数人の客たちを「う~む」と感心させた。
今夜と明日の二日間、店には真知子の姿が見えない。
親戚の法事で九州へ帰ることになり、店番はあらかじめ津田に代役を頼んでいた。
しかし、津田は「たまには誰ぞに包丁握ってもらいいな。わしやのうても、ええ人がおると思うけどなあ」とほのめかした。
いっこうに思いあたらない真知子が「いったい、誰なのよ?」と訊ねると、「信州のガラス細工職人は、田舎料理も上手になっとる思うで。わしの目に狂いはないはずや」と、加瀬のことをほのめかすのだった。
その言葉どおり、加瀬の包丁さばきには、プロの料理人とは一味違った独特の深みがあった。
「津田さん、加瀬さんはすごい腕だよ。この鯉の煮付けなんて、最高だね。八千穂村の地酒にもバッチリ合う」
鯉の肝煮もたいらげ、こくのある純米酒で酔っ払った澤井が、上機嫌で言った。顔見知りの客たちも、「まったく」「同感!」と声を合わせた。
「南信州の佐久鯉は、有名やからなあ。滋養もたっぷりや。けど、なにより加瀬はんの気持ちがこもっとるわ。あんた、これ、おとといぐらいから、家で炊いとったやろ?」
津田の視線が、飴色になった鯉の身から上目使いに加瀬へ向けられた時、「一人なんだけど、いいかな?」と玄関から声がした。
「はい」と加瀬が答えたのは、津田になのか、その新客に対してなのか分からなかったが、津田は自分と同い年ぐらいの客を振り返ると「どうぞ、どうぞ、おこしやす。カウンターとテーブル、どちらがよろしいか?」と案内した。
「じゃあ、一人で小上がりってのも味気ないから。カウンターでお仲間に入れてもらおうかな」
すだれのような薄い頭の男は朗らかに答え、水野たちと数席離れた右端に腰を下ろした。
加瀬が、素朴なガラス鉢に盛った鯉の洗いを男の前に置いた。
「おぉ、珍しい! 鯉ですな。私は、こいつに目がなくてねえ」
男はそれを見るなり目を瞠り、声を高めた。
そして、冷酒を注文しグビリと飲ったかと思えば、水野や澤井に馴れ馴れしいほど話しかけ、食べては飲み、飲んでは喋るという、年並みとは思えない健啖ぶりだった。
時計の針が10時30分を回ると、店内の客は水野と澤井、津田にその男だけだった。酔いが回ったのか、男は静かになっていた。
「さて、そろそろ俺たちも引き上げるかあ。加瀬さん、お勘定……」
そう言った水野の目の前で、突然、加瀬がカウンター越しに男へ飛びついた。
「お、お、お願いだ! 死なせてくれ! 俺は、もう死ぬんだ!」
「ばっか野郎っ! 縁起でもねえ! ここじゃ、絶対死なせねえよ!」
加瀬が、男の右手首をしっかりと押さえていた。暴れる男の左手がグラスを弾いたが、それを待ち受けていたかのように「よっしゃ!」と津田がナイスキャッチした。
あっけにとられる水野の横で、居眠りをしていた澤井が「ど、ど、どうした! 地震か!火事か!」と跳ね上がった。
津田が澤井を目で制しながら、男の両肩を背中から押さえていた。
「やっぱりな。なんや、おかしなおっちゃんやと、思うてたんや」
男は観念したのか、血管を浮かせている加瀬の太い腕に、ぽろぽろと涙を落とした。
「加瀬はん、もう大丈夫のようや。離してあげよ」
その言葉が終わる前に、加瀬はもう握力をゆるめていた。
男の手から一粒のカプセルが転がった途端、津田の手がさっと動き、それをポケットにしまい込んだ。
「これは、わしが始末しときまっさ!」
津田の太い声に、みなが一瞬無言になった。
水野が控えめな声で、口を開いた。
「しかし……加瀬さん、間一髪だったね。なんで、分かったの? 俺たち、気のいい親父さんだなあって思ってたのに」
「匂い……というか、勘みたいなものでしょうか。昔の僕が目の前にいるような、そんな気がしたんです。この人の笑顔の中にある、影みたいなものが見えた。それに、似合わないほど賑やかだったし……」
肩で小さく息をしながら、加瀬が答えた。
「加瀬はんが最初に『はい』って答えた時に、わしもなんや妙な感じがしたんや。……あんさんやから、見えたんやろなぁ」
途切れた加瀬の言葉に、津田がつないだ。
しんと静まった店内に、男のすすり泣きだけが聞こえていた。11時を打つ柱時計の鐘が、彼の細い声を掻き消した。
「お客さん……負けちゃいけないよ。生きてりゃ、きっと、またいい日が来る」
加瀬の言葉に、男はうなだれたまま答えなかった。乱れた髪には地肌がのぞき、悲壮感をよけいに煽った。
水野と澤井は、何かを言おうとしては、ためらっていた。
「あんさん……この人もな、昔、死にかけたんや。本人に言わすのは心苦しいさかい、わしが言いますけどな。どん底から這い上がって来はった人や。今は、自分の命と同じように人様のことも大事にしてはる。そやから……あんさんのお話し、聞かせてもらえまへんか」
津田はそう言って、男の肩を握った。その声に加瀬がすっと動き、湯気を立てる「鯉こく」を男と津田の前に置いた。