Vol.43 上がり

マチコの赤ちょうちん 第四三話

横なぐりの氷雨に、マチコの暖簾が濡れそぼっていた。今しがた現れた松村や澤井だけでなく、やって来る客たちは一様にコートの襟を立て、首をすくめていた。
「やけに冷えるねえ。真知子さん、もうちょいと、熱めの燗にしてくれませんか」
カウンターに座る老人が、しゃがれた声で空の徳利を持ち上げた。
歳は70歳ぐらいだろうか、きれいに剃り上げた頭や頬には、しみと痣がのぞいている。しかし、藍色の和服と雪駄履きは、いなせな江戸っ子を感じさせた。
その右隣の席では、彼を連れて来た秋月商店の宮部が、口静かに盃をなめていた。
「それじゃあ、辛口の土佐のお酒は、いかがですか?銀平さん」
厨房の湯気の中から、チロリを手にして真知子が訊いた。
老人はコクリと頷くと、「あんたみたいな別嬪さんにそう呼ばれると、気恥ずかしいや」と目尻をほころばせた。
真知子が橘銀平と初めて出会ったのは、去年の暮れに催された秋月商店の日本酒き酒会だった。偶然にも着物姿で居合わせた二人は、営業マンの宮部に引き合わされた。
真知子は、どこかしら見覚えのある銀平が銀座の老舗“寿司銀”の大将であることを思い出したが、テレビや雑誌で見た老練な雰囲気よりも、時おり見せる遠い眼差しが気になっていた。
今夜は、その日以来の再会だった。
宮部から銀平を紹介された澤井が、はっとしたような顔で、興奮気味に口を開いた。
「寿司銀さんは、僕も何度か行ったことがあるんですよ。ほんとに、美味かったなあ。それにご主人のその頭も、忘れられない味ですよね。でも、今日は、寿司を握ってる時とは別人みたいだなあ」
澤井の言葉に、銀平はふっとほほ笑むと、姿勢を正しておじぎをした。
「そうですか、うちのお客様でしたか。ありがたいことで。……あっしは、もう店には立たねえんですが、今後もどうぞご贔屓にお願いします」
その言葉に、真知子の包丁の音が止まった。“鳩が豆鉄砲”といった顔の澤井が訊き返そうとした時、宮部の声がした。
「親父さんは、今年から息子さんに頭領を譲ったんだよ。何度も止めたんだけどね。『潮時だ』って、頑として聞いてくれないし、理由も言ってくれないんだよ」
宮部は肩で大きく息を吐くと、やれやれといった表情で頬杖をついた。
「……男ってえのは、しのごの言わず、黙って決断するもんだ。だけど、宮さん。あんたには、いろいろ世話になったからな。今日誘ってもらった時も、あんたにだけはちゃんと話しておこうと思ったよ」
銀平はおもはゆい表情で、ゆっくりと話し始めた。
昭和一ケタ生まれの銀平は、板前の上下関係には特に厳しく、修行は教えてもらうのではなく、兄弟子の技を見て、盗んで覚えろという主義だった。駆け出しの板前たちは、朝一番から深夜まで働きづめの毎日だった。
そんな銀平のやり方に、近頃の若い職人たちは長続きしなかった。
銀平の後を継ぐ息子は、「もう、親父が生きてきた時代じゃないんだから」と、職人が辞めて行くたびに古い考え方を諌めた。
そして、50歳を過ぎた息子のなじみ客が増えたこともあって、銀平は引退を決意したのだった。
「それにね……見てみなよ、この手を」
銀平が手のひらを広げると、深い皺がマチコの柔らかな灯に浮かんだ。
「みっともねえんだよ。こんな手で、寿司を握るのが。寿司の味は、シャリやネタだけで作るんじゃねえ。“粋(いき)”ってのもあるんですよ。瑞々しくて、きれいな職人の手も、江戸前寿司の大事な味なんだ。それが無くなりゃあ、お客さんの前には立てねえよ」
銀平の声に、店内がしんみりとした。格子戸を打つ雨音だけが、小さく響いていた。
「じゃあ、親父さんの寿司は、もう食べられないんですかぁ?ちっくしょう!俺も清水から飛び降りる覚悟で、有り金はたいてでも行っとくべきだった」
頬を赤らめる松村が、酔った勢いで声を高めた。
横に座る澤井が、松村の肩を小突いてささやいた。
「馬鹿やろう……お前、言葉に気をつけろよ」
その様子に、銀平は優しげな面ざしを返した。
「お若いの、申し訳ないねえ。まあそう言わずに、うちの息子もあれなりに頑張ってますから、一度おいでになってください。それに、シャリの吟味だけは、まだまだあっしの仕事です。これだけは息子に譲れねえ。客前には出ないが、味には口を出しますよ」
そう言ってから、銀平は宮部の背中をポンと叩いた。宮部は頷き、ニッコリとして盃を飲み干した。

「さてと……宮さん、あっしはそろそろ、おいとまするよ」
銀平が腰を上げかけたその時、ずっと黙っていた真知子が、笑顔で熱い茶を差し出した。
「銀平さん。本当に、おつかれさま……“上がり”をどうぞ」
皺立った両手で茶碗を包むと、銀平は温かい茶をすすった。
「真知子さん、ありがとう。美味い“上がり”だねぇ……おっ、こいつはいいや」
茶柱を立てたお茶の中に、銀平の満面の笑みが揺れていた。