「ごめんやっしゃ。遅うなったけど、明けましておめでとうさん」
赤ちょうちんの灯が、津田の吐く白い息をオレンジ色に変えていた。シベリアからの寒波到来で、よく冷え込む土曜日の夜だった。
新年早々に仕事の都合で上京すると、津田の年賀状には記してあった。
「いらっしゃい。こちらこそ、本年もよろしくお願いします」
あらたまって丁寧におじぎする真知子は、渋い色の大島紬をまとっている。ヘアースタイルも和服にふさわしい、女将っぽい雰囲気だった。
「ほぅ!えらい似合うやないか、真ちゃん。孫にも衣装とは、このこっちゃな。それがお母ちゃんの着てはった、泥大島かいな。けど、親父さんには、だいぶ口説かれたみたいやな」と、津田はマフラーを外しながら、我が事のように、自慢げに声を高めた。
しかし、あいにくの週末と寒さのせいなのか、マチコは閑散としていて、スーツ姿の若者がポツンと座っているだけだった。
「まったく……もう、津田さんの耳に入ってるの?あっ、和也君ね。男のくせに口が軽いんだから」
そうグチりながら、真知子はコートと風呂敷包みを受け取った。持った感触から思うに、包みの中身は酒の四合瓶のようだった。
「これ、お酒でしょ。すぐ、飲みます?」
真知子が包みを解こうとすると、津田はテーブル席に座る若い男を一瞥して、声を低くした。
「いや、後でええ。わし一人になってからで、ええわ。……ところで、親父さんは元気にしてはったか?」
熱いおしぼりで、額から首までまんべんなく拭く津田に、真知子は「元気過ぎちゃってね」と肩をすくめた。
それから、ひとしきり真知子は、父の様子や昔の思い出をうれしげに話した。静かなマチコの中に、しばらくの間、二人のやりとりが響いた。
若い男は盃をなめては、じっとテーブルを見つめていた。
「真ちゃん、親兄弟は大事にしいや。かけがえがないちゅう意味は、亡くしてから分かるもんや」
津田はそう言うと、ゆっくりとタバコを取り出し、火を点けた。
「今日は、わし自身にもそれを言い聞かせる、大事な日なんや。いつもなら、関西にいてる日や」
ほーっと吐き出されたタバコの煙の先に、日めくりが吊るされていた。1月17日だった。
真知子がポツリとつぶやいた。
「あっ、今日って……阪神大震災があった日」
「……わしの店のお客さんも、ぎょうさん亡くなってはる。神様は殺生やと思うた。真ちゃん……わしの弟は、灘の小さな酒蔵に勤めてたんや。ええ酒を造ってた。あの前日も『兄貴、今年は上々の出来や』と、法善寺の店まで持って来てくれてな。遅うまで一緒に飲んで、神戸の家まで帰りよった。そんで、朝になったら、家の下敷きやった。その酒蔵も倒壊したけど、何とか復活して、今も頑張って操業しとる。それがせめてもの供養や」
津田の言葉が終ると、すすり泣くような嗚咽が聞こえた。黙って盃をあおっていた、男の声だった。
「おい、あんた。どないしたんや?ひょっとして、あんたも地震に……」
「うっ、うっ……」と声を詰まらせた男は、津田の言葉にコクリと頷いた。
「そら、すまんかった。辛いことを思い出させてしもたな。堪忍やで」
津田は男の背中をさすると、「いっしょに、飲もか」とカウンター席に誘った。
男はようやく落ち着くと、遠藤慎一と名乗った。出身は神戸市東灘区の御影界隈。偶然にも津田の弟が勤めた酒蔵から近く、浅からぬ縁に3人ともが驚いた。
当時高校生だった遠藤は、震災で両親と姉を失った。一家全員が家屋の下敷きになったが、父親はどうにか這い出し、燃えさかる炎の中で彼を救出した。母と姉は絶望的だった。
遠藤を助け出した時、焼け落ちた柱が父を襲った。遠藤は重傷の父を背負い、避難所に倒れこんだ。その2日後、医療施設に収容されぬまま、父親は逝った。
「神戸を離れて、もう9年になります。叔母のいる千葉に引っ越したんです。でも、社会人になってから、毎年この日は、自分一人で偲ぶことにしています。親父は、酒が好きだったもので……」
遠藤の手には、少し色褪せた写真が握られていた。ひと昔前に流行った服装の家族が、ほがらかな笑顔をならべていた。
「それを……テーブルに置いてたの」
真知子が割烹前掛けの端っこで、目頭を押さえた。津田はウンウンと頷きながら、唇を噛みしめていた。
「あなたの関西弁が懐かしくて、じっと聴いていたんですけど、震災の話しについ……。何だか気遣いさせてしまって、かえってご迷惑をかけたみたいで、すみません」
遠藤はかしこまって、頭を下げた。
「何を言いますねん。わしの方こそ、配慮が足らんかった。ほんまに、ごめんなさいよ。けど、不思議なご縁ですな。これが、ちょうど役に立ちますわ」
津田は潤んだ目をやさしくして、風呂敷包みから酒瓶を取り出した。
「弟がいてた、灘の蔵元の酒です。わしは毎年この日に、これを飲ります。今でもあいつと、飲んでますねん。遠藤さんも一緒にどうぞ」
酒瓶のキャップに津田の手がかかった途端、「あっ、ああー」と遠藤が叫んだ。
「えっ!?どうしたの?何があるの?」奇声に目を白黒させる真知子の前で、津田も唖然として遠藤を見返した。
「そっ、そっ、その酒蔵の井戸水で、親父は二日間生きてたんです。あの時、飲み水がまったく無くて、給水もしてもらえず、その酒蔵の方たちが井戸から汲んでくれた水だけが命綱でした。おかげで、親父は『さすが、俺が気に入った酒の蔵元や』と、最期は笑顔で……笑顔で……」
遠藤の声は、いつしか涙に戻っていた。
「……ほら、親父さんが、じれてはるわ」
目をまっ赤にする津田が、酒瓶を遠藤へかたむけた。
真知子が、遠藤の前にグラスをもう一つ置いた。
「おおきに……おおきに」
かすれる遠藤の口から、おだやかに、関西言葉がこぼれた。