ほのかに光る軒灯が、上品な“てまり”の文字を浮かべている。
着物姿の真知子が格子戸を開けると、「おいでやす」の声が聞こえた。数奇屋風の店先には、正絹をまとい日本髪を結った東八千代の顔がほころんでいた。その向こうでは、頬を赤くした津田が笑っている。
祇園の花見小路の片隅にある“てまり”は、10人も座れば満席になりそうな、こぢんまりとした店だった。
「おっ、来たな!ようお越し」
津田が座る朱塗りのカウンターの中では、割烹着の若い板前が黙々と料理をこしらえていた。
「ステキ……」と見惚れる真知子の瞳に、店に飾られた大小の毬や扇が映えていた。
「まあ、ようこそ真知子さん。遠いところをおおきに。ほんまに、嬉しゅうおすわぁ。さあさ、お寒いよって、奥へどうぞ」
八千代のつややかな銀髪が、ゆっくりとおじぎを繰り返した。
昨夏、京都人の八千代は、津田の紹介でマチコにやって来ていた。
八千代は先斗町の割烹をたたみ、祇園に誰でも気軽に入れる日本酒BARをこしらえたいと言い、そこには小さな畳座を敷き、京舞いのひとさしも楽しんでもらうつもりだった。
そして、この2月始めに、美濃和紙で丁寧に包んだ案内状が真知子へ届いたのだった。
半年前の八千代の言葉どおり、“てまり”は下足を脱いで上がる畳座になっていた。
真知子は津田とともに、掘りコタツ式になった座卓に案内された。
清水焼の器に盛られた“てまり”のおばんざいが、卓に並んだ。
「八千代さん、開店おめでとうございます」
真知子は御祝儀の熨斗袋をふくさから取り出し、八千代の前に置いた。
八千代は「いやぁ、どないしょ……こんなことされたら、うち困ります」と遠慮したが、
真知子は「ほんの気持ちですから」と押し出した。
「そうどすか……ほんならお言葉に甘えて、遠慮なしに頂戴いたします。今日は津田はんの奢りらしいどすし、どうぞ、ゆっくりしてっておくれやす。なあ、津田はん」
八千代は津田の膝へやんわりと手を置きつつ、ほほ笑んだ。ごく自然な八千代のしぐさは、祇園の女将としての円熟味を感じさせるものだった。
年を重ねても芸妓としての色香が褪せていない彼女に、真知子は惚れ惚れとした。
そして、カウンターで接客するその姿をじっと見つめていた。
「えらいご執心やな。どないしたんや、真っちゃん?」
津田が真知子に、燗酒を注いだ。
「えっ……八千代さんって、やっぱりスゴイなあと思って。私なんて、あんな風には、とてもなれないだろうなって……」
真知子は小さく答えて、盃に唇をつけた。
「さよか……なるほどな。真っちゃん……もうちょっと、八千代はんを見といてみい」
目配せをして、津田はタバコに火を点けた。その一本を吸い終るまで、津田は何も言わなかった。
一人一人の客に相槌を打つ八千代は、さりげない愛らしさを感じさせた。
「どや……何か、分かったか?」
灰皿へタバコを揉み消しながら、津田が訊いた。その顔をまっすぐに見返して、真知子が言った。
「……お客さんが、八千代さんと話すたびに元気になっていくみたい。ほら、あの中年の男性、来た時はすごく疲れた顔をしてたけど、もう上機嫌。そこの恰幅のいい社長風のオジサンは、連れの人にガミガミ言いながら入って来たのに、今はニコニコ顔。何だか、魔法を見てるみたい」
真知子の言葉に、津田は目を閉じたままウン、ウンと返した。
「そうや。さすが真ちゃん、ようでけました。けして媚びるでなし、愛想づくしでもない。あれは、ほんまの自然体や。わしも昔、不思議でならんやった。ほんで、八千代はんにいっぺん訊いてみたわけや」
「その秘訣を? いったい、何だったの?」
真知子は、思わず身を乗り出していた。
「実はな……八千代はんだけの“間合い”みたいなもんがあってな」
津田がそう話し始めた時、八千代が「真知子さん、どうどすか?お口に合いますやろか?」と酌にやって来た。
途端に「ほらな、このタイミングのええこと!」と、津田が膝を叩いた。
八千代はその空気を察したかのように「何どす……“呼ぶよりそしれ”どすか?」と、おどけて見せた。
「真っちゃんがな、いずれは、あんさんのような立派な女将になりたいねんて。さて、どないしたもんやろか?八千代はん」
津田が盃を飲み干すと、徳利を持つ八千代の手がしなやかに介添えした。
「うちなんて、そんな晴れがましいもんや、おへん。……真知子さん、このお料理。これだけぎょうさん並んでも、それぞれが美味しそうに見えるのは、なんでどっしゃろ?」
八千代は、卓上の肴を指さして訊ねた。
「器と器の間合いどす。お互いが生き生きとする、ちょうどええ間があるんどす。人間も同じ。いつの時代になっても、男さんはおなごの前では、威張りたいんどす。ええ気分になりたいんどす。けど、かしずいてばっかりでは、女かてやってられまへん。そやから、ちょっと距離を持って、一寸へりくだって、男さんの言い分を聞いてあげることが大事。職場でも家でも、それは女として大事なたしなみやと思いますなあ。言うたら、心に“5センチの間合い”を持つことどす。けど、真知子さんは、もうできてまっせ。……ただ、自分が気づいてないだけや」
津田からの返杯を「おおきに」と受けた八千代に、「お~い、女将」と新しい客から声がかかった。
「へぇ、今まいります」と席を立つ八千代を見ながら、津田が思い出したように言った。
「そう言われてみたら、なるほど……真っちゃんも、店ではいつも5センチ間隔に皿を置いてるような気がするなあ。……何や、八千代はんを若うしたら、真っちゃんに見えてきよった。うん、大丈夫や。わしが太鼓判押したるで」
津田のやさしい言葉をきっかけに、真知子は美味い酒に酔った。
そして“てまり”の軒灯が消え、二人が下足場に立つと、ほんのり酔った真知子が「あっ!5センチの間合い、見ぃつけた」と叫んだ。
玄関に並ぶ真知子の草履は踵をそろえていたが、津田の革靴は5センチほど離して置いてあった。
「う、うむ……言いにくいけど、これは“男だけが分かる間合い”やな」
照れ笑いする津田の前で、八千代と真知子の笑い声が手毬のように弾んでいた。