「うるせえなっ! 俺の一番の楽しみを邪魔すんな!」
突然のその怒鳴り声に、初めてマチコにやって来た老齢の夫婦が、目をしばたいていた。
声の主は、カウンターで携帯電話を手にする松村和也だった。
「和也君。また、由紀さんに連絡してないんでしょ? だめじゃないの。新婚なんだから」
とがめる真知子にも、和也は抗弁した。
「ちゃんと、毎日メール入れてますよ……ったく、いちいち電話して来やがって。得意先と飲んでる時だって、お構いなしなんだから。まるで、ストーカーだよ」
松村和也は、広告代理店に勤めている。日頃は深夜までの接待酒も多く、唯一くつろげる土曜の夜には、決まって一人でやって来た。
結婚前、一度だけ紹介された妻の由紀は、控え目でおとなしい人だった。
仕事柄、派手な女性に囲まれることの多い和也は、そこに惹かれたなどとノロケてもいたのだった。
「あんなに幸せそうだったのに、よくもそこまで言えるわね。バチが当るわよ」
眉根を寄せて真知子がとがめた時、夫婦がテーブル席を立った。
杖を突く主人をかばう婦人は、ふくよかな容姿に淡い紫の友禅を纏っている。その楚々とした姿に、和也がつぶやいた。
「いいなあ、あんなカミさん。何だか、妻の鏡って感じで」
それからも不機嫌な真知子に、和也は「ちぇっ」と舌を打ち、引き揚げて行った。
小一時間もした頃、閑散とするマチコに、今しがたの婦人が現れた。その手には、一冊の古びた大学ノートが握られていた。
「ここに住んでいた頃の物ですの。差し出がましいとは思ったのですが、さっきの若い方が、主人の昔によく似てたので……」
夫婦は、四十年前に暮らしたこの街を、主人の退職記念に訪れていた。
当時、証券マンだった主人は馬車馬のように働き、家を顧みることなど皆無だったと言う。
会話もなく、日々悶々とする婦人が考えたのは、日記のやりとりだった。
「馬っ鹿野郎。そんな物、男がいちいち書いてられっか!」
予想通り、白紙のノートを投げ返されたが、彼女は黙々と綴り続けた。
当初は意に介さなかった主人も、月に1回が3回、2行を5行に、したためるようになった。
「あの方の奥様の気持ちが、よく分かるの。主人の仕事を理屈では分かっていても、毎日確かめなきゃ、気持ちが落ち着かないの」
捲ったページには、しなやかな筆づかいもあり、また、殴り書いたような言葉もあった。
「主人は、くせのある文章や文字に、私の気持ちを実感したそうです。 確かに、今の携帯電話やメールは便利でしょうけど、そんなものを、感じられるかしら。便利になることで、失くしてしまうものもあると思うの」
考え込む真知子に、婦人は優しく続けた。
「あなたのお料理には、手作りの温かみがあるの。さっきの煮物だって、私たちのために、薄味にして下さってたでしょう。だから、このお店が好きな方なら、きっと、この日記を生かせると思って……」
ほころんだ婦人の面差しが、セピア色のノートに似合っていた。
その時、カウンターの隅で、和也の忘れた携帯電話が鳴った。
「……もしもし由紀さん。私、真知子です。ねえ、手メールって知ってる?」
そう切り出しながら、真知子は、懐かしい母の匂いを思い出していた。