「ママさん。このグラス、置かせてもらえるかい?」 つややかな絹布が開かれると、藍色の江戸切子が白地に映えていた。
ため息が出るほど、しっとりとした風情の冷酒グラスだった。表面には、うっすらと 「S.K」のイニシャルが刻まれている。
加瀬と名乗るその男は、春の旬を肴に、一人で盃をかたむけた。
歳の頃は、四十半ばと言ったところだろうか。知的で端正な面立ちに、どことなく陰を漂わせていた。
赤ちょうちんにはそぐわない、取っつきにくそうな加瀬を、常連たちは遠巻きにしていた。四季の花の名を諳んじたり、真知子を独り占めする酒や器の薀蓄など、鼻につくこともしばしばあった。
ひと月が過ぎ、その間、加瀬が現れると、常連たちは席を温めることもなく、一人、また一人と帰って行った。
切子の盃を手にする加瀬へ「キザったらしい奴」とばかり一瞥を投げる彼らに、真知子はハッと気づいた。だが、今さら盃を置けないとは言えなかった。
公園の植え込みをさつきの花が彩る頃になると、加瀬の足はパッタリと途絶えた。 棚に置かれる盃に舌打ちし、鼻先で嘲っていた常連たちは、不思議と彼の行方を気にかけた。
「嫌味な野郎だけど、来なけりゃ来ないで、味気ねえなあ」
「あの人、寂しそうなんだよね。いつも、何かを背負ってる感じだった」
誰ともなくこぼした言葉に、みなが無言でうなずいた。
その数日前、マチコの格子戸には、加瀬俊一からの伝言が挟まれていた。
加瀬は、老舗のガラス器メーカーの跡取りだった。
会社の破綻が目前に迫り、成す術を失っていた加瀬は、ふらりと立ち寄ったマチコの赤ちょうちんが、やけに新鮮だったと記していた。
家族のような会話やほのぼのとした雰囲気は、リストラと資金繰りに血道を上げる間に忘れていたものを、俄かに思い出させたのだった。
それに触れてみたかったが、最後まで手を差し出す勇気がなかったと文末は結ばれていた。
真知子は、このままに黙っておこうと思った。
風の噂が加瀬の再起をはこんでくれば、ここのみんなは、いつでも受け入れてくれると信じられた。
「加瀬さん……もう、マチコの常連さんね」
カウンターに置かれた切子グラスに、一輪の白いさつきが揺れていた。