寒さが戻った三月末、空には薄墨色の雲が垂れこめていた。
市場の買出しをすませた真知子は、かじかむ掌へ息を吐きかけながら、裏通りの植え込み脇を通りかかった。
冷たい風が、蕾をふくらませた雪柳を揺さぶっている。緑色を帯びた枝葉は、寒気へ抗うように激しくたわんでいた。
ふと見ると、茂みの向こうに人影がうずくまっていた。
そっと覗いてみると、白髪の鬢をほつれさせる老婆が、小さな地蔵の前で手を合わせていた。着ている小紋の紬は、真知子の記憶に濃く残っている。
「あっ! シゲノおばあちゃん」
真知子の声は閑散とした小道に響くほどだったが、老婆は聞こえたようすもなく、もぐもぐと念仏をとなえていた。
その足元には、一杯のコップ水と咲きかけの雪柳の束が置かれていた。
飯島シゲノは、地元の旧家に暮らしていた。少し痴呆症気味で、昼下がりから夕刻になると町内を徘徊する癖があった。
老舗の寿司屋に向かって、30年前に亡くなった先代の名前を呼び、10年前に銭湯跡へ建ったマンションの前では「お風呂屋は、どこに引っ越したの?」と、誰かれとなく問うのだった。
彼女を捜す家族たちは、幾度かマチコの店先へも訪ねていた。
そのくたびれた表情に「また、あの婆さんかよ。家族も大変だよな。あんな厄介者になるぐらいなら、早いとこ逝っちゃうよ。俺なら」と罵る学生客を、真知子がこっぴどく説教したこともあった。
通りを抜ける強い風が、シゲノの着物の裾を捲り上げた。
年老いた股と膝があらわになったが、それでもシゲノは一心に地蔵を拝んでいた。
「おばあちゃん。風邪引いちゃうよ。ねっ、お家に帰りましょう」
堪りかねた真知子は、シゲノの背中にそっと手を置いた。小さな肩だった。
「ちょっと待ってていただけるかしら、靖男が帰って来るまで。今日は一緒に源蕎麦へ行く約束だから、あなたも一緒にまいりましょう」
シゲノの表情は明るかった。髪は風にもつれ、帯もゆるんでいたが、その瞳は生き生きと輝いていた。
ただ源蕎麦は、真知子の知るところでは古い時代の名店で、今は跡形もないのだった。
「じゃあ。靖男さんが帰ってくるまで、うちで休みましょう。靖男さんには、私が伝えますから。ねっ!」
真知子はシゲノの着物の乱れを直すと、自分のショールをかけてやった。
「あら、ご親切にありがとう。あなた、妙子さんだったかしら」
シゲノは足元の雪柳を手にして、そう言った。
「いいえ、真知子です」
「そうそう、真知子さんだった。あなたも靖男のお友だちね」
「ええ、そうよ」
その靖男がシゲノの家族にちがいないことは、真知子にも分かった。
ちょうどマチコの店先へたどり着いた時、「母さん! 駄目じゃないか」
と、二人の背中に怒鳴り声が投げられた。
振り返ると、薄禿頭の男性が息を弾ませて立っていた。
男はシゲノの息子で、飯島昭男と名乗った。真知子から事情を聞いた昭男は、何度も頭を下げて、シゲノを連れて行った。
小1時間後、ようやく支度を終わらせたマチコに、昭男がやって来た。
その手には、白い雪柳が握られていた。
「先ほどは、失礼いたしました。助かりました。この時期になると、特に出て行く回数が多くなるもので……。あの、ちょっといいですか?」
真知子がうなずくと、昭男はゆっくりとカウンターへ腰を下ろした。
「靖男は、20年前に病気で死んだ私の兄です。生きていれば65歳ですが……。小さい頃、家族の誕生日には源蕎麦へよく行ったもので……今の母の中では、いろいろな記憶が混ざり合っているようです」
途切れながら、そう打ち明ける昭男に、真知子は彼自身の苦しみを感じた。
「おばあちゃんは、いつもお地蔵さんへ?」
「いえ……この時期だけなんです。兄の誕生日頃になると、あそこの雪柳が咲き始めるんです。無意識に足が向くのでしょう。そして、無意識に拝んでいる。兄の好きだった日本酒も供えているようです。切れ切れの兄の記憶をつなげているのが、この雪柳なんだと思います。実は母が、これをあなたに渡してと言って、聞かないもので」
昭男が恐縮しつつ、雪柳を手に取った。真知子は、その白い蕾を黙って見つめていた。
「今の母には、自分に声をかけてくれる方が、兄と同じ存在なんだと思います。子どものような、純粋な人間になっています。……私は、毎日振り回されながら、そんな母に反省させられることもあります。人は、いつかはそうなるのかも、いえ、ならなければいけないのかもと、考えたりします」
「……忘れな草」
そう呟いた真知子は、雪柳を受け取ると、白磁の花瓶に活けた。カウンターに、瑞々しい美しさがひろがった。
「あの……よかったら、お酒いかがですか。お兄さんと一緒に」
真知子の瞳に、昭男の笑顔が映っていた。
穏やかなまなじりが、シゲノにそっくりだった。