加瀬の指が、小さなガラス玉をカウンターに転がした。
澄んだブルーの光は、冷酒グラスへ寄り添うように止まった。
「子どもの頃は、こんなビー玉が大好きだった。もう一度、初心に戻ろうと決めたんです」
半年ぶりに、加瀬俊一がマチコへ現れていた。
ヘアスタイルはスポーツ刈り風に変わり、連れの老練そうな白髪の男と同じく藍色の作務衣をまとっていた。カウンターに隠れている足元も雪駄履きという風変わりな出で立ちである。
日焼けしたような加瀬の顔は、以前の暗鬱さを消し去っていた。
「元気になってらして、安心しました。加瀬さん、別人みたい。その格好、とっても似合ってよ」
カウンター越しの真知子の賛辞に、店内に座る常連客たちもうなずいていた。
はにかむ加瀬はビー玉を手のひらに乗せると、じっと見つめて言った。
「ここにいる欣治さんが、僕を救ってくれました。落ちぶれても、もう一度やり直すこと。人としての道を大切にすること。世間の風潮や景気にとらわれず、自分を見つめ、日々問いただしながら精進し続けること。今、僕の毎日はそこにあるんです」
昨年の秋、放浪から帰った加瀬は、意を決して債権者たちとの話し合いにのぞんだ。社長の責任を逃れ、家族まで見捨てた加瀬には「人でなし」の罵声も浴びせられた。
平身低頭、ただ額づくしかない加瀬を待っていたのは、「自己破産」の烙印だった。融資の担保だった土地家屋は競売に掛けられ、結局加瀬の手元に残ったのは、古びた先祖の位牌と仏壇だけだった。
妻と子どもは、無理やり離婚して実家にかくまってもらうしかなかった。
「ご家族の方とは……」
会っているの? と訊くつもりの真知子だったが、加瀬の心中を察してその言葉をためらった。
途切れた真知子の声に、加瀬が問わず語った。
「ええ……月に一度は。僕は、長野の八千穂村で欣治さんと暮らしてます。あの時は、親戚も誰一人、声をかけてくれませんでした。加瀬家の面汚しには、当然の報いでした。そして、僕が差し押さえられた家を出て行く朝、欣治さんがいらしたんです」
加瀬の横に座る江村欣治は、加瀬ガラス工芸店に四十年あまり勤めていた“吹きガラス”の匠だった。
江村は、創業者である加瀬の祖父の元で現場一筋に生きてきた。
しかし、バブル景気に乗じて二代目の加瀬の父が海外製品輸入を推し進めると、彼の仕事はめっきりと減り、十年前に吹き棒を置いたのだった。
企業家として野心を燃やした二代目は好景気に舞い上がり、土地の買い付けや不動産などの商売へも手を染めていった。本業の方は、台湾や韓国から安価な製品を仕入れ、量を売りさばく流通主義に切り替えた。
しかし、バブル経済が崩壊した時、加瀬ガラス工芸店は膨大な在庫を抱えていた。
さらに債務の心労から、父親が急死。専務になっていた加瀬は、莫大な借金を背負わねばならなかった。
加瀬の言葉が終わると、沈黙がマチコを包んでいた。
おもむろに口を開いたのは、江村だった。
「私は五年前に、信州の田舎で小さなガラス工房を作りました。実のところ、会社を辞めた後は、恥ずかしい思いの毎日でした。初代社長に育てていただいた御恩を忘れていたんですねえ。いい年をして、短気になって。こんな小さなガラス玉を作るのも、十五歳の新米の私は一生懸命だった。そう思って、もう一度、最初から始めたんです」
江村の言葉に、加瀬が続けた。幼い頃の加瀬には、江村が作ったガラス玉が玩具だったらしい。
「欣治さんは、素人の僕へ『一緒にやりませんか』と誘って下さった。子どもの頃に大好きだったビー玉やポッペンを作ってみないかと。これからの僕には、収入よりも、生きがいが必要ですよと……。ガラス窯の熱に負けそうになったり、まだまだ吹き棒も持てない半人前以下ですけど、いつか娘たちに、僕の作ったビー玉を渡したいんです」
真知子が、加瀬の手からビー玉を取った。
「あるがままの、透きとおった自分……私も、忘れないようにしたい。加瀬さん、このビー玉、頂いてもいいかしら」
水色のビー玉の中に、加瀬と江村のほほえみが揺れていた。