「だいたいねぇ、君の部署は経費を使い過ぎだよ。来週からは、エンピツ1本、消しゴム1個まで僕の方でチェックすることになるから、覚悟しといてくれ」
鼻先を赤らめた男は銀縁メガネを指先で押し上げながら、横に座る水野に言い放った。細い顔には、神経質そうな性格が映っている。
時折カウンター越しに真知子へ投げる視線が、やけに猜疑的だった。
話しの内容と水野の押し黙ったようすから察すると、どうやら新任の上司らしい。
そのカウンターの端っこでは、久しぶりに現れた津田が熱燗をかたむけている。水野と男の不穏な会話は、かれこれ30分も続いていたが、津田はそ知らぬ顔だった。
一方的な男の言葉に黙りこんでいた水野が、おもむろに口を開いた。
「だけど、何でもかんでも切り詰められちゃ、うちのチームも困りますよ。内藤課長は財務一筋だったから分からないでしょうが、商品企画には気持ちの余裕や、考える環境が必要なんです」
水野の抗弁が終わりもしないうちに、内藤はこめかみに青筋を浮かせた。
「何を言ってんだ。そんなことだから、いつまで経っても利益が出ないんだ。無駄なことは一切認めないぞ。企画チームのワガママで、商品部全体の採算を悪くされてたまるかっ! それに、我が社の商品は普及型なんだ。嗜好型じゃないんだ。それなりの機能とそれなりの品質で、いかに安く提供するかがセールスコンセプトだ。だったら企画費や開発費だって、安くできなきゃおかしいだろ!」
今度は内藤の語尾をさえぎるように、「ドンッ!」と水野がカウンターを叩いた。一瞬、店内に緊張が走った。
「あんた、何も分かってないっ! 物を考えたり、作ったりする人間じゃないからだよ。数字ばっかり見てるから、なんでも帳尻が合わなきゃ気が済まないんだろ。あんたの世界が“1たす1は2”でも、俺の世界は“1たす1は3以上”なんだよっ! そういう仕事なんだから、経費だって多少はかかるんだよ。俺たちには“必要な無駄”なんだ」
ただならぬ雰囲気に、周りの客たちは固唾を飲んだ。
しかし真知子は、一心に鍋へ向かっていた。津田が頼んだ熱燗のおかわりも、そっちのけだった。
「おいおい、真っちゃん。わしのこと忘れんといてや。あんたらも、もうちょっと静かにでけへんか。ほかのお客さんもいてまっせ。聞くに堪えんな、どっちも間違っとるし」
津田は禿げ頭を掻きながら、水野たちをたしなめた。
「ちょっと、あんた。そりゃあどういう意味だよ。企画営業ってものを分かって言ってんのか?」
腕を組んだ内藤は津田に向き直り、詫びるどころか、喰ってかかった。
水野があわてて内藤の肩をつかんだが、その時には、立ち上がった津田が内藤に近寄っていた。
「津田さん、失礼しました。俺、謝ります。だから落ち着いてください」
酔いが醒めたらしい水野は、津田の前に立つと何度も頭を下げた。
「ちゃいまんがな、水野はん。これを渡そうと思うて」
津田の太い指に、小さな板切れのようなものが握られていた。
「わしの新しい名刺ですねん。内藤さんでしたな、わしはこういう者です」
木を薄く削って作ったその名刺は、真知子も年末に津田からもらった物だった。
「法善寺ともしび 店主 津田正造」と筆書きされた名刺からは、ほんのりと木の香りがした。
「これねぇ、法善寺横町の店が焼けた後、残ってた柱から作りましてん。新しい店を出すのに資金繰りが大変やったし、こまごましたことには無駄使いはでけへん。かというて、夜の飲み食い商売やから、それなりに魅力づくりは必要でっしゃろ。こうなったらジタバタしても始まらんなと、店のチーフとじっくり相談してた時、ええアイデアが閃いたんです」
そう言って、津田はゆっくりと内藤の横に腰かけた。
罹災するまで津田もチーフも、日々の売上や仕事の段取りのことでお互いの立場ばかりを主張し、目先の問題解決にとり憑かれていた。
しかし、一切合切を失ったあの日、津田もチーフも目が醒めた。
廃業か再開かに始まり、二人でとことん検討し合うことで、見失っていたものを取り戻すことができたと津田は語った。
焼け跡の瓦礫が撤去され始めた日、チーフから「焼け落ちた柱を使って箸や器、ほかにもいろいろな必要品を手作りしてはどうか」と提案された。
より印象的に「ともしび」の再スタートを飾れるし、コストも安くつく。
時間は充分あると、その妙案に、二人はガッチリ握手したのだった。
「あんたらも、とことん話し合うことですわ。自分の責任範囲にとらわれず、二人で腹を割って考えなはれ。話し合うための時間は“いい無駄”やけど、今のあんさんらの話しは、ほんまに無駄や」
内藤と水野は、口をつぐんだまま名刺を見つめていた。
「お二人さん。じゃあ、これはいかがかしら? マチコにも“いい無駄”がございましてよ」
真知子が、冷酒グラスと汁碗を二人の前に置いた。
「このお酒は精白30%の大吟醸。贅沢この上ないけど、本物の味のためには磨きも仕方がない。こっちの粕汁は、その大吟醸の酒粕を使ったもの。具は、野菜の切れ端やさばいた魚のカマやアラだけど、いい味でしょ。二つを一緒にいただくと…ね! 最高でしょ」
交互に口をつける内藤と水野が、顔を見合わせ、うなずいた。
「う~む。さすが真っちゃん。それを出すタイミングにも無駄がなかった。まだまだわしも、修行せんならんなぁ」
津田のその声は、さらにいいタイミングだった。
静まっていたマチコに笑い声が弾けた。