「お前、まだそんな甘っちょろい夢を見てるのかよ。作家になるなんて、どだい無理なんだよ。いいかげんに目を醒ませっ!」
紅潮した松村が、ドンッとテーブルを叩いた。徳利も転びそうなその勢いに、俎板を洗う真知子の手が止まった。
片付けを待つだけのマチコの店内に、たかぶる声の余韻がただよった。
普段ならカウンターに座るはずの松村が、今日に限って奥まったテーブル席に腰を据えていた。その前には、やさぐれた風貌の鬚面の男が座っている。
二人がやってきた時、看板の時間はもうとっくに過ぎていた。
面目ない面持ちで両手を合わす松村に、真知子は「1時間だけよ!」と念を押した。
「肴はいいよ……。熱燗を二、三本、つけてくれないかな」
そう言った松村の声が、やけに沈んでいた。
二人の会話は、一方が話し込めば暗澹とした沈黙が生まれ、その繰り返しだった。灰皿へ置いたままのタバコから、青い煙がゆらぎもせずに昇っていた。
松村の表情はいつになく強張り、眉間を険しくさせていた。
ポツポツと言葉を返すその男は酒をあまり口にせず、松村の問いかけにも首を横に振るばかりだった。
ピッチが速まる松村の酌は、いやおうなく真知子の目に止まっていた。
「そろそろいいかな? 和也君、もう電車もなくなっちゃたわよ」
ためらいつつ、真知子はそう切り出した。閉店時間よりも、松村の様子を見かねたせいだった。
「おい福田、ちょっと待ってろ! 話しはまだ終わってないんだ。次、行くぞ」
呂律をからめる松村が手洗いに立つと、しばらくして、男はゆっくりと立ち上がった。
真知子が小首をかしげて見返すと、福田と呼ばれた男は、しーっとばかりに人差し指を唇に当てた。
「女将さん、あいつに伝えてもらえますか……。俺は馬鹿だけど、お前と知り合えてよかったって」
福田は、静かに会釈をした。その瞳は寂しげではあったが、透んだ色を浮かべていた。
「あっ! ちょっ、ちょっと待って」
カウンターをくぐった真知子が店先へ飛び出した時には、駆けて行く福田の背中が街燈の下で小さくなっていた。
「大馬鹿野郎が……。一生頑固なままでいやがれ!」
振り返ると、肩を落とす松村が格子戸にもたれていた。
カウンターに座り直した松村は、八年間の福田とのつき合いを話し始めた。
私立大学のマスコミ学部を卒業した福田は、松村と同じように中堅どころの広告代理店に就職した。松村にとっては、競合会社のプランナーだった。
初めて顔を合わせた同業仲間の飲み会で、クリエイターにしてはやけに熱い性格の福田を、松村は気に入った。松村はプロデューサーとしてのマネージメント性、福田は制作グレードにこだわるクリエイティビティー論を主張した。
そんな関係から、得意先への広告コンペを終えた日には、いかに自分の企画が素晴らしいかを自慢し合い、朝まで酒を酌み交わす仲になった。
しかし、アド業界には御曹司御令嬢を優遇して採用する風潮があり、福田が配属された企画制作部にも、そんな社員があちこちに居座っていた。
さしたる才能も持たず、裕福な育ちでぬくぬくとやっている先輩たちとは、反りが合わなかった。
福田が会社に対して唯一溜飲を下げたのは、五年目となった年、とある小説賞に入選できたことだった。当然ながら、社内の連中は小馬鹿にするだけで、それを手ばなしで喜んだのは松村だけだった。
翌年、福田は辞表を出した。作家の夢があきらめきれなかった。その夏のある日、松村は新宿の街角で道路工事をする福田とばったり出くわした。
福田は「もうすぐデビューなんだ」と、うそぶいた。
松村は自分の会社に勤めてはどうかと誘ってはみたが、福田はヘルメットから漏れる汗をぬぐって、笑うだけだった。別れ際に、松村は福田の尻を叩きざま、ポケットに一万円札をねじ込んだ。
あれから、さらに二年が経っていた。今朝方、その福田から会社に電話が入った。
福田の随筆が、売れない雑誌の片隅をかざっていた。昔の松村ならそれを讃えもしたが、そんな情熱や理想も、歳とともに薄らいでいた。
現実的に見て、福田はもう限界だと思った。松村は福田をマチコに呼び出した。
「もう一度、うちに誘ってみたんだ。でも、駄目だった。あんな強情者見たことないよ……ったく」
「一途な人なのね。でも、今の時代だからこそ、そんな人がいてもいいのかも知れない」
真知子は、うつむく松村の気持ちを察しつつ、テーブルを片付け始めた。
徳利の横に、折りたたまれた紙幣が置かれていた。
「和也君……これ、福田さんじゃないの?」
けげんな表情で一万円札を開いた松村が、「あっ」と声を洩らした。
「あの一万円。あいつ、使ってなかったのか」
皺くちゃの紙幣に見入っている和也を、真知子が覗きこんだ。
「こんなに真剣な和也君を見るの、私、初めて。福田さんって、和也君の鏡だと思う。君があきらめた夢を、ずっと追いかけてるんだ」
その言葉に、松村が、ふっと溜め息ともつかない笑みをこぼした。