Vol.19 寒椿

マチコの赤ちょうちん 第一九話

 積もった雪に仄めく赤い灯りが、ふっと消えた。
最後のお客を見送り、軒からちょうちんを外す真知子のうしろで、かすかな鳴き声がした。
振り向くと、オスワリをした一匹の柴犬が、寒風に白い息を弾ませていた。
「まあっ!サスケじゃないの。どうしたの?こんな真夜中に。あんた、遠い所へ引き取られたはずでしょ?」
和服のすそを揃えてしゃがむ真知子に、濃い栗毛の犬がすり寄った。サスケは、筋向いの小さな一軒家に住んでいた独身老人島 清吾の飼い犬だった。
喜寿を迎える清吾は、十年前に妻を亡くしていた。子どもはおらず、親兄弟もすでに他界した天涯孤独の身の上だった。
手入れされた庭先の植え込みや盆栽に、真知子は繊細で几帳面な清吾の人柄を感じた。店へ向かう途上、サスケを連れて散歩する彼に声をかけられ、熊本に残している父の様子をこぼすこともあった。
清吾は、若かりし頃の夫婦の写真を懐にしのばせていた。妻は千代子という名だった。藍染の紬と大柄な椿の帯が似合っていた。
彼は月に数回マチコヘ現われる程度だったが、ぬるめの燗と小芋煮を必ず注文し、ほど良い顔色になると帰って行った。店先で清吾を待つサスケに、真知子は温かい牛乳を与えた。
独り身の清吾に、真知子は「残り物ですが、よかったらお家でどうぞ」
と器に詰めた惣菜を手渡すこともあった。清吾は「真知子さんの味は、家内の味に似てるんですよ」とまなじりをほころばせた。そんな清吾に、真知子は田舎の父を重ね見たりもした。
その清吾が、節分に行き倒れた。妻の墓参の道すがら急な心不全に襲われ、郊外の畦道で冷たくなっていた。墓地への道のりには電車を乗り継ぐため、あいにくその日はサスケを連れ出していなかった。
澤井や辻野も参列した簡単な葬儀では、おそらくサスケがいれば一命を取り留めたかもと、そこかしこで囁かれるのだった。
サスケは、埼玉で暮らす清吾の知人が引き取ったと噂に聞いた。
清吾にすれば、サスケなくしての余生などあり得なかったにちがいなく、また、残して逝く無念もあったであろうと回想する真知子だった。
だが、目の前に座るサスケは薄汚れ、腹も巻き上がり、疲れ果てたかのようにうずくまっている。長旅を通して来たせいか、野良犬にも劣る風体だった。
ふと、赤い首輪にぶら下がる小さな包みが、真知子の目に止まった。
「……何かしら?」
滲んだ文字は、どうにか「真知子さんへ」と読み取れた。
焦る気持ちをおさえつつ開くと、駅のロッカーキーと、小さく折りたたまれた手紙が入っていた。
短い文面には、死期を悟る清吾の本音が綴られていた。近頃の著しい発作から、余命幾ばくもないことを清吾は感じていたらしい。そして、亡き妻の形見の帯とサスケをどうか引き受けて欲しいと、いつになく赤裸々な心情も吐露していた。
「この手紙があなたに届くことを、妻とともに願っております。マチコへは数えるほどしかお伺いせずに、厚かましくもこんなお願いを申し上げるのは、誠に無礼千番なことと存じます。しかし、私の余生にとって、マチコは温かい心と懐かしい思い出にひたる唯一の場所でありました。あなたとお客様たちの打ち解けたお話しや、素朴な手料理、そしてサスケへのいたわり。真知子さんのひとつひとつの仕草、ふるまいに、私は千代子を思い浮かべておりました。今、心残りはサスケのことであります。願わくば、私を支えてくれたサスケのままに、あなた様のお父上のもとで過ごさせて頂けないものかと。そして、椿の帯をしたあなたが、もっともっと皆さんの元気を咲かせる姿を、空の上から拝見いたしたく存じます」
真知子は誰もいなくなった清吾の家の前で、サスケとたたずんでいた。

 月明かりに映える白い庭の中で、ポツンと赤い椿が咲いていた。その鮮やかな花は美しかったが、やけに孤独にも思えた。
真知子はこみ上げてくる感情と身を刺すような寒さに、島夫妻の墓守りを続けていこうと決心した。
「サスケ。熊本への旅は長いわよ」
真知子の凛とした横顔を、サスケは見上げていた。
澄んだ冬の夜空に、サスケのひと吠えが響いた。