大寒の猛寒波に襲われた東京は、朝の小糠雨を雪に変えて、夕刻のマチコの通りは路面を凍てつかせるほど冷え込んでいた。
サラリーマンたちは、おっかなびっくりの千鳥足。その慌てぶりを語るかのように、彼らの吐く白い息がそこかしこで乱れている。
「うおっ!とととっと。危ねえ、危ねえ~!」
足元をすくわれた松村が、両手でバランスを取りながら上手く堪えると、その後ろから聞き慣れた声が飛んだ。
「ほう~、さすがにまだ若いなぁ。和也君」
着ぶくれした津田はおぼつかない足取りで、マフラーの中の顔が苦笑いしていた。
「けど、お誂え向きや。今日みたいに寒い日は、真っちゃんに頼んで、こいつでアツアツのブリ大根でも作ってもらおうと思うてな」
体のバランスを取りながら、津田はビニール袋を松村の面前に持ち上げた。
「築地で見つけた、天然物の氷見の寒ブリや。なかなかの上モノやでぇ」
うれしげな表情のまま津田が玄関を開けた途端、出会い頭に、若い客が飛び出して来た。
「おぉっ、とっとと」
「うあっ!」と、二人の声が交錯する中、津田の手からブリの袋が飛んだ。すると、若者は機敏に反応して、それをナイスキャッチした。思わず、客席からやんやの拍手が浴びせられたが、若者はそれには応えず、尻餅をついた津田を心配した。
「だっ、大丈夫ですか!?す、すみません」
「気をつけろよ!そんなに慌てなくても、いいんじゃねえの?何だか、逃げ出すような勢いじゃんか?」
津田を引き起こしている松村が、皮肉るように言った。
「あっ、ご……ごめんなさい」と若者はうなだれた。
するとカウンター席の隅から、しゃがれた声が聞こえた。
「その通りでさ。そいつは、逃げ出したんですよ。おい太一、いつまで突っ立ってんだ。目障りだから、とっとと出てけ!」
頭を五分刈りにしたいなせな雰囲気の男が、お燗酒の盃を傾けながら太一と呼んだ若い男を見据えていた。カウンターの中の真知子が、津田に意味ありげに目配せをした。
「仙次兄さん……わ、分かりました。あの、これ……いいブリですね」
なじられた若者は一瞬カウンターの男を振り返ると、津田にブリの包みを手わたし、出て行こうとした。その気落ちした肩を、津田の右腕がぐいっと掴んで引き戻した。
「あんさん、わしはまだ、許してへんで。ぶち当たった詫びに、ちょっと手伝うてくれへんかな」
とぼけた表情の津田は、太一の手のひらを見るや「ふむ、そこそこ料理はできそうや。ブリ大根、いけるやろ?」と厨房に引っ張り込んだ。
呆気に取られているカウンターの男はしばし黙考し、再び津田の横顔を凝視するや、「あっ!」と声を上げた。
「津、津田正造さん!?料理本の“甘辛問答”も監修されてる、大阪の名割烹“ともしび”のご主人?」
声をうわずらせる仙次に、松村は「そうだよ~ん!ってことは、お客さんも料理人なの?」と自慢げにささやいた。
「はぁ、俺たちは寿司の職人で……そいつは、弟分に当たるヤツなんですが。まだ3年目の21歳なのに、情けないかな、辞めるって言い出しやがって」
仙次が飲み下すように酒をあおると、太一はまたも気弱な面持ちになって、真知子からわたされた包丁を止めた。
「……俺、寿司職人に、向いてない気がして。水仕事ばかりで、手がカサカサで、いつまでたっても包丁はしっくりこないですし……仙次兄さんの手はツヤツヤしてて、根っから料理人らしい手だと思います。それに、津田さんですか……あなたの手も、御年のわりに滑らかそうじゃないですか」
太一はアカギレとひび割れだらけの自分の手を見つめながら、深いため息を吐いた。
途端に、仙次がカウンターをドンッ!と叩き、「ばっ、ばっか野郎!お前、誰に向かって言ってんだ!」と鼻息を荒げた。
「まあまあ、仙次さん。これは、誰しも越えてきた道や。あんさんも、わしもな。……太一君、わしの手も若い頃はボロボロでなぁ。当時は、見習い期間が長くて、5年間は包丁握れず、水洗いの仕事ばっかりや。けどな、ようやく魚をさわれるようになってくると、段々と魚の脂が手になじんでくるわけや。特に、ブリみたいな脂ののった魚を料理できるようになった頃、ようやく一人前の手になってるというわけや。どんな仕事にも、マニュアルとはちがう、節目ちゅうのがある。それは、先人の方々がちゃんと考えた“教え”みたいなもんや。根性や辛抱なんて言葉、もう今のご時勢は死語になってきたけど、料理人の世界には必要なもんやとわしは思う。料理人は、腕と心を磨きながら、己自身で成長していくもんや」
津田の言葉が途切れると、仙次はウンウンと頷きながら自分の昔を思い出すかのように、手のひらを見つめた。
真知子がすかさず、言葉をつないだ。
「太一君、私なんて30歳を過ぎてから、料理人になったの。だから人一倍、努力してきた。ほら、手だって、ひび割れがいっぱいあるわよ。あなたなんて、これからじゃない。さしずめ!このブリね。あなたはまだ、イナダ。そして、仙次さんはワラサってとこかしら。津田さんになって、出世魚のブリ。まだまだ、先は長いわよ」
大根を洗う真知子の手を一瞥した太一は、はにかむように赤面した。津田が髭をいじりながら、つぶやいた。
「う~む。真っちゃんにしては、いつになく臭いセリフやなぁ」
「ほんと、大根役者だね~」
調子に乗る松村の盃とお銚子を、真知子がふんだくった。
「あっ、そう!じゃあ、ブリ大根あげない。まっ、あんたは出世のしようがないだろうからね。そうそう!溜まってるツケの支払い、今日済ませてよね」
「ゲッ!そりゃ、ないよう~」
その前で、嬉しそうにブリの身を仕度する太一の手に、しっとりと脂がしみていた。