大寒を迎えて、都心でも雪のちらつく毎日が続いていた。
重ね着するのが嫌いな真知子にしても、近頃の寒さは尋常ではなく、マフラーをグルグル巻きにして、亀のように首をすくめて店へ向かうのだった。
今夜も、氷雨の上がった後だけに、身を切るような冷え込みである。
マチコにやって来る男たちは、すり合わせる両手に息を吐きかけながら「うう~、寒いねぇ」と身震いを繰り返している。
「いいかげん、手袋買ったらどうなの?」
「だからぁ、酔っ払うと無くしちまうもんで、カミさんが買ってくんないの。真知子さん、この前も言ったじゃん」
そんな真知子と客の会話に、カウンター席の津田がにんまりとしながら燗酒を傾けている。横並びには澤井と宮部、その一つ向こうに白髪混じりの男性と30歳前後とおぼしき男が座っていた。
歳のいった方はすっかり酔っているらしく、うたた寝しては起きて、酒をなめている。二人の横顔や盃を手にするしぐさは、どことなく似通っていた。
真知子から酌されつつ、津田は彼らを一瞥し「……親子で飲めるっちゅうのは、父親にとってええもんやろなぁ。あないに、気がゆるむもんやねんな。わしも、息子が欲しいなるわ」と赤ら顔をほころばせた。
「あら、いるじゃない。ここに、長男が。できの悪い次男は、今日は来ないみたいだけどね~」
真知子は、お銚子をそのまま澤井に傾けた。
「津田さんの長男ってのは、光栄だねぇ。でも和也は、マジで津田さんの息子にしちゃって、もう一度、シゴいた方がいい気がするよ」
その澤井の言葉に、宮部が酒を口に含んだまま相槌を打った時、玄関先で大きなクシャミが3回続いた。
「ほ~ら、お出ましよ」と、真知子が苦笑した。
「あっ!今、俺の噂してたでしょう~?」
鼻水を拭いながら津田たちを睨む松村に、澤井が笑いを噛み殺した。
「お前って、そういうタイミングだけは、できがイイよなぁ~。まあ、熱いの一杯やれよ」
澤井が、真知子のつけたばかりの熱いお銚子の首をつまむと、松村は空いてる席に腰かけた。そして、注がれた酒を飲み干し「ふぅ~、生き返るぅ」と嘆息した。とその時、隣の白髪混じりの男が、グラリともたれかかってきた。
「とっととと、大丈夫すか?」
「あっ、あっ、い、いやぁ~。すんまへんなぁ。わし、酔っぱろうてまんねん。ごめんやっしゃ、兄ちゃん」
男は両手を合わせて、何度も松村に詫びた。そのようすに、隣の若い男はしかめっで舌を打っている。
「あっ!関西の方ですか?うれしいなぁ~。俺、松村って言います」
「さ、さいでっかぁ。ウィッ、あ~、あんさんも?いやぁ、奇遇でんなぁ。ほ、ほな、一緒に飲みまひょか?わてねぇ、梅田いいまんねん。ヒック!おもろいでっしゃろ。大阪の梅田さんですわ、あっははは~!」
それまでうつらうつらしていた梅田という男は、松村もたじろぐほど豹変し、ノリが良くなった。
二人のやりとりに澤井と宮部は目をしばたたかせ、真知子は津田に「大阪のいいオッチャンね」と目配せした。
「す、すみません、一線を越えちゃうと、いつもこうなんです。しばらくしたら、また寝ちゃいますから……おい親父、もういいかげんにしなよ」
若い男が、梅田の両肩を抱き寄せた。
「こら!一郎。何が“超えちゃうと”じゃ、このボケ。お前、大阪生まれやったら、大阪弁使わんかい~、ウィ!」
その勢いで梅田の盃から酒がこぼれ、足元にあった松村のカバンと梅田のカバンを濡らした。
「あっ、あっ、ゴメンゴメン。か、堪忍やでぇ~。おい一郎、拭いて差し上げんかい、ボケ!」
一郎は父親に言われるがまま、松村の鞄をハンカチで拭って「ごめんなさい」と頭を深く下げた。
「……あの、お父さん。そないに息子さんをボケ呼ばわりせんでも、ええやんか」
松村は気兼ねして、梅田をたしなめた。
「おっ、に、兄ちゃん、ええがなぁ。その言葉使い……やっぱ、大阪が……」と、梅田はいきなり事切れたようにガックリとカウンターに倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと!大丈夫!?」
突然のことに真知子は声を張り上げたが、梅田はピクリともせず、いきなり高いびきを鳴らし出した。
カウンターの男たちも真知子も、唖然呆然としたままだった。
「うっほほほ!今どき珍しい、吉本新喜劇みたいなお父さんやなぁ……大事にしてあげなはれや」
津田が場の雰囲気をなごませるかのように、タバコの煙を柔らかに吐いた。
その言葉に、一郎はふっと表情をゆるめ、父親のいびきの中でつぶやいた。
「……もうすぐ定年ですわ。窓際に追いやられてもうて、出張なんて今さら無いくせに。ヘタクソな嘘ついて、たまに上京して来ますねん」
「あれ?大阪弁、しゃべるやんか?」
松村が怪訝な顔で、盃をなめた。
「ええ……けど、そうしたら親父がうれしいなって、ベロベロになるまで飲むんですわ。近頃は飲み過ぎで、体悪うしてるもんで……わざと大阪弁を、しゃべらんようにしてますねん」
一郎は母を少年時代に亡くし、親子二人の家庭だったが、父を残して東京転勤になり3年目を迎えると打ち明けた。嫁の心配もあるのか、父はやって来るたび彼を酒場に誘い、それとなく聞き出そうとする。
だが、先に酔っ払っては、こんな醜態をさらすのだと嘆いた。
「……親父の鞄、空っぽですねん。さっき、松村さんの鞄を持った時、はっと気づいたんです。普通、出張して、あんな軽さはないですもん。そこまでして、上京せんでもええのに」
哀れむような一郎の視線の先に、革の擦り切れたカバンが転がっていた。
津田の、低くて太い言葉が響いた。
「わしは、そうは思わん……その空っぽの鞄には、あんたへの愛情がいっぱい詰まってる。あないにくたびれるほど、カバンに仕事がいっぱい入ってた時もあったんや。それほど頑張ったんは、誰のためや?ここまで大事に使いはったんは、何のためや?いつか、たった一人の息子と、うまい酒を飲む日がくることを夢見て、生きてきたんやないか。今度は、その空っぽのカバンを、あんたの感謝でいっぱいにしてあげんとあかんのちゃうか」
一郎は愕然としてうなだれ、しばしの沈黙がカウンター席を包んでいた。
しかし、その肩に松村は優しく手を置き、盃をわたした。
ほほえむ真知子が、ぬる燗をつけたお銚子を差し出した。
「もう一杯だけ、飲ませてあげたら……大阪弁で」
乾きかけていたカバンの染みに、一郎の顔からこぼれたしずくが重なった。
「……親父、おおきに」
梅田の心地良さげないびきの中で、男たちの笑顔が揺れていた。