Vol.107 漫才

マチコの赤ちょうちん 第一〇七話

通りを行く焼き芋屋の汽笛のような音が、つるべ落としの夕暮れの中に響いていた。
遅い買い出しをすませた主婦たちはその音に気を取られたが、背広姿の男連れはマチコの窓からもれる白い煙の方が気になるようだった。備長炭の香ばしい匂いは、近づいて来る松村と澤井の口にも唾を湧かせた。
「こりゃ、津田さん仕込みのホルモン焼きだな。ラッキ~!」
二人は声を合わせると、マチコの格子戸を勢いよく開けた。
カウンター席には、たまに来る年輩客たちや日本酒好きな証券マンのコンビが座っていて、真知子が相手をしている。厨房では案の定、作務衣姿の津田が串を炙っていた。
いつもの定位置に腰を下ろそうとした松村だったが、突然カウンター前を走った関西弁の子どもたちに腰を浮かせたまま驚いた。
「へぇ? め、珍しいねえ、大阪の子?」
「そうなの。津田さんのお連れさんのお孫さん。二人とも、利発な子よ~。あんたたち、束になっても叶わないかもね」
子ども好きな真知子が嬉しげに言うと、「いやいや、お恥かしい。躾がなってないもんで、えらいすんまへんなあ」としゃがれた声が聞こえた。
カウンターの奥に、短い白髪の男が座っていた。
津田はホルモン焼きを仕上げてカウンター席に座ると、仙波というその男をみんなに紹介した。
「わしの同級生で、最近まで大阪で漫才師しとってな。残念ながら、仙ちゃんは三流で終りました。ほんまやったら、わしにも、これぐらいの孫がおってもええっちゅうわけや。わしゃ、種なしかぼちゃですさかい」
「わては、ネタなしですがな。まあ、今日は関西のええ地酒を仕込んできましたから、皆さんで楽しんで下さいな」
仙波が返すと、津田は「おう、そうやった! 真っちゃん、あれや」と酒の冷蔵ケースを目でさした。
「でも、あんたたち、こういう時には嗅覚が鋭いわねえ。値上がりしそうな株には、まったく鼻が利かないのにねぇ」
一升瓶を取り出す真知子のツッコミに、細い証券マンが「すいません、若い頃は才能があったんです」と真顔で答えると、太っちょの証券マンが「ボク、子どもの頃、チクノウだったんです」と間髪入れずにボケた。
地酒を口に含んだばかりの松村がぶっと鼻から吹き、澤井は証券マンと松村を交互に見ながら、苦しそうに笑った。
証券マンたちは「大阪の漫才が大好きで、あのボケとツッコミが俺たちちには、理想なんです」と言った。
酔った彼らは仙波を「師匠!」と呼び、自分たちが会社の宴会でやる漫才ネタを披露した。
関西弁ではないが、松村や澤井は感心し、周りの客たちも酒を片手に耳を立て、カウンター席は小さなステージのようだった。
ネタが終ると客たちは「やるねえ! セミプロ級じゃない」「そのネタ、仕事に使えるよ、いただき~♪」と褒めそやした。
しかし津田は「なかなかのもんやけど……ちょっと、ちゃうねんなあ」とぬる燗のお銚子を仙波に傾けた。
仙波も口元でニヤリとしただけで、盃を手にした。
周囲の面々が湧く中で、証券マンは「あっ、あれ? おかしくないっすか?」と仙波に訊いた。
「いや……そこそこ、おもろいと思うで」
そう返事した時、テーブル席で大爆笑が起こった。
何事かとカウンターの面々が振り返ると、仙波の孫を囲んだ客たちが腹を抱えて、拍手喝采していた。
肴を運んだ真知子も、涙をこらえて笑っていた。
「もうだめ~、おっかしいの! あの子たち、普通の会話してるのに、そのまま漫才なのよね。お腹がよじれちゃうわ」
最初は小学生の兄弟に目を細める客たちだったが、子どもらしい可愛さと大阪らしいえげつなさを混ぜ合わせた彼らの会話に引き込まれた。
その間合い、ノリとテンポの良さに、「あれが、本物の大阪漫才すか」と証券マンコンビは茫然としてつぶやいた。
「いや、そうやないんです。けど、大阪の笑いにしても、東京の笑いにしても、元々は生活の中に育ったおもろいことや楽しいこと、人の心が素になってますがな。あれは、根っからの大阪の子の姿ですわ。東京には、東京の子の姿がありますやろ。それに昔は、東京にもええ漫才がおました。けど、今はあれこれごっちゃになってもて、よう分かりまへんわなあ。地酒も同じでっけど、やっぱり文化には土地土地の個性ちゅうか、風土っちゅうのが大事ちゃいますかなぁ」
仙波の言葉に、松村や澤井たちは真顔になって「なるほどね~」とうなずいたが、津田は「仙ちゃん、熱でもあんのか?」とボケた。
「ほらなぁ、これが大阪気質ちゅうか、普通の会話なんですわ」
「そ、そうなんすよね~!
目を輝かせる証券マンコンビに、仙波はちょっとうれしげに酒を注いでやった。
「一番ええ、大阪漫才の勉強方法を教えたげよか」
津田の言葉に、証券マンコンビは「何すか、それって?」と目を輝かせた。
「大阪の電車に乗るねん。ほんで、ようしゃべるオバちゃん三人組の前に立つ。ほんなら、タダでほんまもんの漫才聞いてるようなもんや」
「うむ、確かにね~。ところでさ、俺のネタ披露しようか?」
松村が自慢げに言うと、真知子がすかさずツっこんだ。

「あんたのはネタじゃなくて、ヘタじゃないの」
ドッと湧く客たちに、仙波と津田がほほ笑みながら地酒をなめた。
「あの孫たち、ちゃんと仙ちゃんの血ぃ、引いとるがな。あのボケとツッコミは、なんや昔の漫才の匂いがしとるなあ。今にして聞くと新鮮や」
「そうでんなあ。わしの息子は普通のサラリーマンで、何も教えてまへんのにねぇ。困ったこっちゃ」
津田がメガネの奥の目をほころばせながら、つぶやいた。
「いいや……あんな子がぎょうさんおる方が、将来の世の中は楽しいで」
マチコの座敷が、小さな漫才コンビのステージに変わっていた。