Vol.106 家族ゲーム

マチコの赤ちょうちん 第一〇六話

ひっそりとした夕暮れの公園の中を、松村が歩いて来る。ベンチに座って秋虫の合唱に聞き入っていた老夫婦が去ると、彼はそこへ座り、周りに人影がないのを確かめ、急にニンマリとして鞄の中から包み紙を取り出した。
「買っちゃった~♪ 買っちゃった~♪」とうれしそうに開くと、そこには最近ブームとなっている大人向けのゲーム機があった。
「さあ、おいしいエビチリを作りましょう! なんちゃってね」
ひと通りゲームを操作して包み直し、マチコの玄関へ着いた松村は、コホンと咳払いして真顔に返った。
「ふふっ、マチコさん、ビックリするだろな」
そのゲーム機には、真知子も最近「あれ、けっこうおもしろそうね!」と興味を寄せていたのだった。
ウキウキと格子戸に手をかけた松村だったが、その瞬間、「わっ!」と叫んで50センチほども飛び上がった。
「な、な、何だ~!?」
「お腹へったよ……ママぁ」
赤ちょうちんの下に、小さな影がうずくまっていた。目を凝らして見ると、4、5歳と見える男の子が膝を抱えて座り込んでいた。
「おいっ、坊主! どした?」
子煩悩な松村は、声を上ずらせて男の子の前にしゃがんだ。
「ママが……いないの。おうちに、帰りたいよぉ」
男の子は膝の上で両手を握りしめ、小刻みに震わせていた。松村はとっさに鞄と上着を地面に投げ、小さな両手を取った。
「大丈夫だ。おじさんが、ママを探してやるからな」
松村はしゃくり上げている男の子を連れて、マチコの玄関をガラッと開けた。
「いらっしゃい、遅かったじゃ……あら? その子、誰?」
真知子の声に、カウンターに座っていた澤井が「子ども?」と振り返り、新聞を開いている津田は眼鏡の奥から上目使いで松村を見つめた。
周りの席は、わりと高齢の客たちで埋まっていた。
「どうやら、迷子らしいんだよ」
松村は沈んだ声で男の子をカウンター席の端っこに座らせ、「捨てられたわけじゃないとは、思うんだけど」と真知子に耳打ちした。
「そう……とりあえずは、警察に届けなきゃねぇ」
思案顔する真知子の前で、さっそく津田が男の子に近づいた。
「坊や、お名前は何ちゅうのや? おうちはどこや?」
大阪弁は初めてなのか、酔っ払い老人に驚いたのか、男の子は鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、口を真一文字にしていた。
「おじいちゃん、怖くないやろ?」
神妙な面持ちで座っている男の子に、津田は髭面でにんまりした。
とたんに、その瞳からどっと涙があふれた。
「あ~、泣かせちゃったよ」
澤井が言うと、男の子はなおさら火がついたように泣き声を高くした。
「もう、いいから。あんたたちは黙ってて。ぼく、ノド渇いたでしょ? お腹へってない?」
オレンジジュースをカウンターに置いた真知子に、泣き止んだ男の子は一瞬ためらいつつも、コクリとうなずいた。
「ご飯食べようか? その前にさ、お名前、教えてくれる?」
真知子が中腰になってほほ笑むと、男の子は「青山健太」とつぶやいた。
「そう、じゃあ健ちゃんね。健ちゃん、何が食べたい?」
鼻水をなめる男の子の顔を、真知子はティッシュでふいてやった。
「……エビチリ。ママの……エビチリが食べたい」
「ほう、エビチリか。この子、ええとこの子かいな」
津田の太い声に、またもや健太の表情がプルプルと震え、崩れそうになった。
「あっ! こら、あかんわ」
津田があわてて席を離れると、真知子は「今どき、どこの家だってエビチリぐらい食べるわよ。……でも私、エビチリはあんまし得意じゃないのよねぇ」と腕を組んだ。
カウンターの面々がしんと静まると、ふいに松村が「あっ、エビチリ!」と鞄の中に手を突っ込んだ。
キョトンとする男たちの前で、松村はゲーム機を取り出し、スイッチを入れた。
すると、そのようすをじっと見ていた健太は、松村の横から覗きこむや、「さあ、美味しいエビチリを作りましょう♪」とゲームの音声を真似した。
「えっ、おい? お前、これ知ってんの?」
松村が健太の前に画面を置くと、健太はタッチペンを使って器用にエビチリのレシピを探し出した。
「そっか! 健ちゃんのママ、これを使ってるのね」
真知子も画面を覗くと、健太は「うん」とうなずいた。
「じゃ、これに、教えてもらっちゃうわ。待っててね」と真知子が松村からゲームをもらった時、「これも使うんだよ。ママが使ってるのと、同じ字だもん」と健太が返事した。健太が指さしていたのは、澤井が最近、松村に勧められて飲んでいる滋賀県の清酒のラベルだった。
「えっ? 地酒をエビチリに使うのかぁ?」
澤井がつぶやくと、津田が「下味に、使うんやろう。それにしても、何でまた滋賀の酒や」
しばし、酒瓶を見つめていた松村がポツリと健太に訊いた。
「健ちゃん。パパは、このお酒が好きなのかい?」
「うん……でも、パパは天国に行っちゃったの」
健太の返事に、カウンター席がまた静まった。厨房に入りかけた真知子も、はっと表情を曇らせた。
その時、格子戸がゆっくりと開いて、若い女性がようすを窺うようにして顔を差し入れた。
「健太! もう何してるのよ! ダメじゃないの!」
ショートヘアの女性はそう叫ぶと、カウンター席に走り寄って健太をぎゅっと抱きしめた。そして、真知子や津田のほっとしたような視線に気づいて、「あっ! どうも、すみません。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」と深く頭を下げた。
「とにかく、良かったわ」とほほ笑む真知子に、保育所帰りに公園で休んでいて、ふと目を離したスキに健太がいなくなったと女性は声を詰まらせた。
この近くを捜していて「ついさっき、マチコの店先にいた子じゃないか」と、通りすがりの男に教えてもらったのだった。
女性の勢いに思わず立ち上がった松村だったが、ひと安心すると「おい、良かったな。ママ来てくれて」と健太の頭を撫でた。
健太は、松村を見上げて笑った。
「うん! あのさぁ……おじさんの手、パパみたい」
「健太、何を言ってるの! 失礼でしょ」
健太を叱った母親を津田は「まあまあ」と諌め、松村に目を合わせた。
松村はその意味を理解したかのようにうなずき、「あの、ちょっとの間、お話ししていいですか」と自分と同じ年頃の母親に声をかけた。
母親は「あっ……はい」と答え、松村とテーブル席に座った。
二人の席に、真知子がなにげなくグラスと酒瓶を運んでいた。
松村は自己紹介すると、真知子のことを簡単に紹介し、今しがたまでの健太のようすを話した。
女性は少しうつむきかげんで、宮本典子と名乗った。夫を3ヶ月前に交通事故で亡くなした母子家庭であること、しかし自分のキャリアを生かして、働きながら家庭を支えていることを語った。
耳を傾けていた松村は、「そうですか。大変でしょうけど、頑張って下さい」と答えて、地酒の瓶をさりげなく手にした。
「どうですか? 一杯……ご主人が好きだったお酒って、健太君に聞きました。実はこれ、僕の故郷の酒なんです」
「えっ! じゃあ、うちの主人と同じ……彦根ですか?」
松村の微笑が、そうだと答えていた。
「まだ、つらいでしょうけど……たまには、ゆっくり思い出してもいいんじゃないかしら……健太君のためにも。ご主人も、そうして欲しいんじゃない?」
真知子が、松村の横にゆっくりと腰を下ろした。
「ええ……そうしたいと思いながら、つい……」
典子は小さくうなずくと、黙ってグラスを手にした。
カウンターの客たちが見て見ぬふりをする中、トクトクと酒の音が響いた。
その沈黙を埋めるかのように「さあ、美味しいエビチリを作りましょう♪」と音声が流れた。
健太が無邪気に操作したゲーム機に、澤井や客たちが背中で苦笑していた。
「これを見て作るエビチリ……主人が、大好きだったもんで」
典子も、涙のにじんだ目でクスリと笑った。

「ねえ、健ちゃん。おばちゃんに、今からこれでエビチリの作り方、教えてちょうだいな。みんなで、食べようね!」
真知子が笑うと、「うん! いいよ。おじさんも一緒に食べようよ」と健太は松村の手を引っ張った。
「……じゃあ、私もお手伝いさせて下さい」
典子が、真知子に頭を下げた。
「ありがとう。そのお酒を下ごしらえに使うの、ママに教えてもらわなきゃね~」
健太は真知子に頬を寄せられて、きゃっきゃと笑い声を上げた。
「あの、ゲーム機……わしも見せて欲しいなぁ」
津田がカウンターから見つめながら、つぶやいた。
「ダメですよ、せっかくいい雰囲気なんだから。また、泣かす気?」
澤井がお銚子を津田に傾けつつ、苦笑した。
「ふんっ、分かってまんがな! さあ、美味しいエビチリ、はよう作ってんか!」
ちょっとふてくされた津田の声音に、カウンター席の男たちがドッと笑った。
それさえ聞こえないのか、テーブル席には健太と典子のうれしげな声が響いていた。