Vol.105 ツクツクボウシ

マチコの赤ちょうちん 第一〇五話

豪雨を運んでくる夕立雲が、めっきりと少なくなった。
マチコの通りも朝晩には冷えた風が抜けるようになって、ぐったりとしていた植木鉢の花びらは、心地よさげにほころんでいる。
とは言え、マチコの客たちの夏バテは、今が最高潮である。
カウンターに体を預けるようにして座る面々は、疲れた吐息とともに「ぬる燗にするわ」と真知子に告げ、いつもより口数少なく盃をなめていた。v テーブル席には、Yシャツ姿の客が一人だけ。常連たちを避けるようにして座っていた。
厨房で調理する真知子がカ~ンと食器の音を立てると、その余韻が店内に響いた。
「何か……お通夜みたいだ」
そうつぶやいた澤井の声も、読経しているように低かった。
「だけど、みんな疲れてるくせにうちへ帰んないね。結局、ここに来るじゃん。条件反射だよ。パブロフの犬だ」
一番元気な松村が、自嘲した。
「帰りゃあ、よけい疲れるの……」
宮部は言葉をそれ以上続けるのもおっくうそうに、ひと言だけつぶやいた。
周りの疲れ顔の客たちも、声なくうなずいた。
「もう。雰囲気暗いわねぇ。お酒がまずくなるじゃないの~。はい! パッと明るく。明るくね!」
カウンター前に立った真知子が、陽気にふるまった。すると、それを邪魔するかのように「ジッ……ジ」と不快な音が聞こえた。
「何? 誰? 人がせっかく盛り上げようとしてんのに」
真知子が、けげんな顔で言った。
「ジ……ジ」
テーブル席から途切れながら続く音にみんなが振り向くと、ポツンと座る若い男が虚ろな視線で壁を見上げていた。
そこへゆっくり近づいた真知子の目に映ったのは、壁にしがみついている一匹の蝉だった。
「あら、こんな所に……いつの間に」
真知子はくたびれた雰囲気の男に愛想笑いをしたが、男は無表情で蝉を見つめたままだった。
玄関から蝉を逃がそうと、真知子はハタキを手にして近寄った。
「そのままに、しちょってください」
博多なまりをうかがわせる男の言葉に、真知子の手が止まった。
「でも……お客さん、気分良くないでしょう。それに、かわいそうだし」
「そいつは、一人が好きでここへ入って来たんでしょ。やけん、戻りたかったら、自分で出て行きますよ」
男は険しい顔でそう言うと、冷や酒を入れたコップをぐいと傾けた。
「……おかしな奴。おつむも、夏バテしてんじゃねえか」
いぶかしげに見ていた澤井が、低い声でつぶやいた。
すると、男はカウンター席を一瞥し「年中バテとる都会もんよりは、マシたい」と皮肉った。
「おっ、地獄耳!」と宮部は苦笑したが、「だけど、今のは聞き捨てならないね」と松村が鼻息を荒くして席から立ち上がった。
「ダメよ、和也君」
真知子は松村の前に立ったが、大きな胸に押しのけられそうになった。
気づくとテーブルの男も後ろに立っていて、真知子は険悪なムードに挟まれていた。
松村も男も、変わらぬ歳格好だった。
「あんた、田舎者か」
「それが、何ね」
にらみ合う二人に「まったく、ガキどもは困るよ」と渋い顔で澤井が腰を浮かせた。それと同時に、玄関から声がした。
「せっかく涼しいなってきたのに、暑苦しいムードやなぁ。和也君、虫の居所でも悪いんか? なんて、冗談言うとる場合やないか」
散髪したてなのか、整髪料の匂いをさせる津田がパナマ帽をあおぎながら近寄った。
松村が「あっ、ども……」と火照った顔で小さくおじぎした。
津田のとぼけた雰囲気に、若い男のこめかみは血管を浮かせていた。
「まあまあ、あんたも落ち着きなさい。けど、たった1週間しか生きへん虫けらやのに、大の男を揉めさすちゅうのはたいしたヤツや」
津田は二人の気勢を削ぐように、鼻鬚をつまみながら蝉を見上げた。
「次は、なにわの芸人さんか……いろいろおる店やね」
男は鼻先でふっと笑って、テーブル席に戻った。
その言葉をさすがに真知子も腹に据えかねたのか、「ちょっと!」と声を発した。
津田は力んだ真知子の肩を分厚い手でトン、トンと諌めると、男の正面に座った。
「おじしゃん、そこへ座ってええと誰が言うたね?」
酔って赤くなっている男の目が、津田をにらんだ。
「あんた……東京に慣れてまへんな。転勤か、転職か、まあ何にしても、さっきの八つ当たりも、この独り酒も、仕事がうまいこといってへんのとちゃいまっか? けどなぁ、お国が変われば、いろいろと事情が変わるもんや。昔、わしの知り合いで、東京から大阪に転勤になった営業マンがおりましてな。得意先に商品を売り込んだ時に『考えとくわ』て言われて、ずっと期待しとったそうや。けど、いっこうに返事がない。おかしいなと思うて同僚に相談したら、『大阪の“考えとく”は、“いらん”って意味や。お断りちゅうことやで』と大笑いされた。誰でも、その洗礼を受けるんですわ。反対に、大阪から東京に来たなら、その逆もおますやろうなぁ」
胸の内を見抜かれたのか、男は急にどぎまぎとしてコップ酒を飲み干した。
そこへ真知子が、赤いつまみを乗せた皿と緑色の一升瓶を持って来た。博多明太子と福岡の地酒だった。
男が「あっ」と声をもらして、真知子の顔を見上げた。
「私も九州育ちでね。東京は空気が汚れてて、緑も少ないし、乾きすぎてるって感じた。蝉だって、田舎の方が過ごしやすいと思うわ。でも、一生懸命に生きてるの。そりゃあ、出て来た頃はいろいろ戸惑ったわ。でも、今じゃこの東京の住人……だから、ストレス感じると、こうやって自分の中にある故郷に戻ってみたりするの」
柔和になっていく男の目尻が、少し潤んでいた。
「俺もそうだよ。あんた、鮒寿司って知ってる?」
「琵琶湖の……じゃあ、滋賀県生まれ?」
表情を和らげて男へ話しかけた松村に、澤井と宮部が「へぇ、大人じゃん」と嬉しげに顔を見合わせた。
鍋島と名乗った男は、ようやく自分から口を開いた。
「……言葉も、なかなか直らんです。いつまでもなまりが抜けんので、口数も減って、顔では笑うとっても心は苦痛です。あの声を出さんツクツクボウシば見た時、自分やと思うたです。けど、気がついたら、みなしゃんに愚痴をブチ撒いて……でも、それが知らん間に、気持ちをスッキリさせてくれたとです。ほっとしました」
「焦ることはないさ。少しずつ、慣れればいい。これからも溜まったら、ここへ来なよ」

松村はふっとほほえむと、真知子から渡されたお銚子から鍋島のコップに酒を注いだ。
「ここの高菜ご飯は、シメに最高だよ!」
澤井がカウンター席から声を投げると、鍋島が「もちろん、頂きます」とシャツの袖で鼻水を拭いた。
「おっ、出て行っちまったよ」
宮部の声に、全員が壁を見ると、いつしかツクツクボウシの姿は消えていた。
「わしらの話を聞いたから、きっと頑張って鳴きよるでぇ」
津田の言葉に鍋島がコクリとうなずくと、真知子が玄関の格子戸を静かに開けた。
夏が去りかけた夜の中、かすかなツクツクボウシの声が聞こえていた。