Vol.108 鮎酒

マチコの赤ちょうちん 第一〇八話

冷えた夜気にとけ込む金木犀の香りに、通りをやって来る男たちは「もう1年経ったのか……早いよなあ」と口々につぶやいた。
つい先日まで、残暑が戻ったかのように熱のこもる夜もあったが、今夜の空気は冬のはしりを予感させるものだった。
それと同じように、マチコに近づいた松村が魚を焼いている煙に鼻をひくつかせて言った。
「そっかぁ……そろそろ、落ち鮎の季節か。一年は早いな」
赤ちょうちんを包むように漂っている匂いに、野良猫が気もそぞろなようすで店先を行ったり来たりしている。
どこの鮎だろうかと松村は期待し、歩幅を大きくした。
津田が毎年送ってくるのは奈良の吉野か京都鞍馬の鮎、澤井なら奥多摩産、宮部は出張がてら木曽川の落ち鮎をいつも土産にしていた。
ところが玄関に入ったとたん、松村は表情を一変させて立ちすくんだ。
頭の中は鮎どころではなくなり、ある人物に視線を釘付けしていた。
「ま、まさか……辻野さんじゃないか」
カウンター席の真ん中に2年前に亡くなったはずの辻野が座っていた。その左には久しぶりに見る水野が座り、笑顔で盃を交わしている。
当時のカウンター席を思い出させる、タイムスリップしたかのような光景だった。
我をなくしている松村に、真知子が優しげなまなざしを送った。
「瓜二つで、ビックリでしょ。いとこさんなのよ……辻野繁雄さん。あんたは辻野さんに特に可愛がってもらったから、驚きもひとしおでしょうね」
それでも抜け殻のままの松村に、厨房から現れた津田が焼き上がった鮎の串を手にして言った。
「何を、ぼーっと突っ立ってんねん。和也君の席は、ここやがな。繁雄さんは顔やしぐさだけやのうて、地酒好きなとこも辻野はんにそっくりやで」
繁雄はその声に応じるように、皺寄った笑顔を松村へ向けた。
「あいつからよく聞いてました、あなたのこと。奴は、息子のように思っていたんでしょう」
席へ誘う繁雄に、松村が吸い寄せられるように歩み寄った。
「私、あいつの忘れ物を届けに来たんですよ。あなたも忘れていると思いますけど……以前、津軽の落ち鮎を食べさせてやると、あいつは約束してたでしょう」
辻野と同じ声音を持っている繁雄に、松村はその記憶を呼び起こしてみた。
北国の津軽では落ち鮎のシーズンは早く終るが、ギリギリ最後に獲れるものは脂のノリが良くて身も太いのだと、辻野は自慢していた。その鮎を囲炉裏で炙りつつ燗酒で楽しむ頃、ようやく冬の気配がやって来るのだと言っていた。
「……思い出しました。でも、どうして今頃?」
繁雄の横顔を見つめる松村は、ようやく表情を落ち着かせた。
「先月のことですが、私は落ち鮎を狙って釣りに行ったのです。その川の瀬は、あいつが最も好きだった穴場でした。せっかくだからあいつの竿を使ってやろうと思って、家を訪ねたんです。竿箱を開けた時に見つけたのが、これでした」
繁雄は、少し色褪せた和紙の切れ端をポケットから取り出した。そこには、辻野の筆跡と思われる文字が覗いていた。
- 和也へ、10月17日に鮎送る -
そう書かれた紙を渡された和也は、手を振るわせた。思わず、辻野のほころんだ目が頭に浮かんだ。
「すぐにピンときました……あなたのことだと。あいつ、亡くなる少し前にその川へ行ってて、その日付の頃が最高の落ち鮎の時期だと判断したんです」
ゆっくりとした繁雄の言葉に、水野が続けた。
「繁雄さんがなり代わって、今年、釣ってくれたんだよ。こいつが、その鮎ってわけだ……これをやるなら、まずは辻野さんが大好きだった津軽の酒だな」
水野がそう言うと、カウンター席の男たちへ津田が順番に鮎を渡した。
松村はしばらく大きな鮎の腹を涙目で見つめていたが、「……いただきます」と繁雄にささやいて口にしようとした。
「ちょっと待って、松村さん。その紙、まだ見落としているところがありますよ」
繁雄が松村の手元に置いた紙切れを、ひっくり返した。
- 鮎酒 - と書かれた下に、数コマの手書き絵で解説が添えられていた。
丼の中に熱燗した津軽の酒をなみなみと入れ、何も味つけせずに素焼きしたままの一番大きな鮎を入れる。いわゆる「鮎の骨酒」で、これをマチコの客たち全員で回し飲んで欲しいというものだった。
「鮎の骨酒なんて、今まで、ここでは誰もしなかったものね。でも、辻野さんらしいでしょ。ほら、最後のここ」
真知子が、紙の隅っこを指差して笑った。

- 最後の一口は、私のいつもの席に置いておくように伝える -
「あいつ……物忘れがひどくなったとぼやいてましたから。こんなふうにメモしたんでしょう」
絵をなぞる繁雄の指を、和也はじっと見つめたまま、微動だにしなかった。
「辻野はんの、いつもの席……今では、和也君の定席になってますねん」
津田の言葉に、繁雄が嬉しげに何度もうなずいた。
真知子が熱い燗酒のお銚子を、そっと松村の前に置いた。
「あんたに、やらしたげる。辻野さんも、そうしたかったはずだから」
「うん……ありがとう」と松村がお銚子を手にした。
トクトクと酒が落ち鮎にしみると、客たちの顔が和らいでいった。
白い湯気の中に、在りし日の辻野の笑顔が揺れていた。