開拓者の商魂とニシン漁が生んだ、最果ての醸造地・増毛町
「日本最北の地酒」と聞けば、左党の誰もが垂涎するにちがいないでしょう。
しかし、その銘酒「国稀(くにまれ)」の蔵元を訪れるのは、容易ではありません。所在地は北海道の北西部、留萌地方に属する増毛郡増毛町(ましけぐんましけちょう)。豊かな北の日本海に臨む、人口4,600人余りの港町ですが、札幌市から車で高速道路を北上すること3時間半を要します。明治期の開拓時代から昭和半ばまで、長年、増毛は陸路による往来を寄せつけず、船で上陸するしか方法はありませんでした。南に位置する雄冬(おふゆ)岬から増毛までは、今も30㎞におよぶ断崖絶壁が海に向かって屹立しています。
さらに厳冬期は、いつ果てるともない怒涛と暴風雪に見舞われるのが常です。
それでも冬将軍は、束の間、快晴の冬空を取材班へ恵んでくれました。あたかも早春の海を思わせる増毛の港からは、遠く利尻富士も霞んで見えるほど。おそらく、この美しいほどに澄んだ原風景は、150年前に本土から移住した多くの人々が目にしたままでしょう。
増毛町の名は、アイヌ語で「かもめの多いところ」を意味する「マシュケ」に由来しています。アイヌから奪ったこの地に日本人の集落が生まれたのは、記録によると宝永3年(1706年)。徳川幕府下の松前藩で家老職を与った下国(しもくに)家が、マシュケを知行地とした時からです。
往時の松前藩では年貢米が思うように収穫できず、家禄を漁業権によって与えていました。つまり土地は冷え枯れても、豊饒な海の幸を禄とすれば、家臣たちは北前船を使った内地への輸出で糧を得ることができたわけです。
その筆頭が、大正時代まで200年間にわたり活況するニシン漁でした。
宝暦元年(1751年)には、松前の商人・村山 伝兵衛(むらやま でんべえ)が函館奉行所より増毛でのニシン漁の網元を請負いました。この人物は、能登半島の阿部屋(あぶや・現在の石川県志賀町阿部屋)の出身で、松前に移住して巨万の富を築き、上方の豪商・鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)と並び称されるほどでした。口伝によると、伝兵衛は「15隻の船を持つまでになりたい」と有言し、その夢を屋号のマルにジュウゴ(○に十五)に表したそうです。
伝兵衛は増毛に出張番屋を設けて、仕事の差配に番頭から手代、小僧に女中、さらには漁師(ヤン衆)まで数百の人手を増毛に送り込みました。結果、大漁続きで勝機をつかんだ伝兵衛の所有する船は5隻に及び、やがて宗谷・苫前・留萌・石狩など松前藩の直轄地を任せられる海商に成長したのです。
爾来、増毛は食用にする干物の身欠きニシン、瓦灯の燃料に使うニシン油、さらには油を絞った後のニシン粕も高級な肥料として本土へ流通。伝兵衛の入植以来、莫大な富がもたらされ、近代に入ると、ニシン御殿を持つ多くの網元が軒を連ねました。
今回訪れた国稀酒造(株)を創業した本間家も、明治期に佐渡ヶ島から北海道へ渡り成功した名門です。明治35年(1902)には合名会社となり、呉服・荒物雑貨・ニシン漁・土地・醸造・ 海運・山林・倉庫等を商う総合商社でした。さらに、先述の松前藩家老の下国家とは、深い血縁関係を結びました。これらの証しが、増毛町の中央を抜ける“ふるさと歴史通り”に威容を誇っている「旧商家丸一本間家」。平成15年(2003)、国の重要文化財に指定されています。
創業者である本間 泰蔵(ほんま たいぞう)の建設した呉服店と酒蔵、そして屋敷は、明治14年(1881)に着手し21年間かけて増築を繰り返しています。540坪におよぶ堅固な石畳と漆喰壁の建屋は賓客を招く座敷をいくつも設け、所蔵する屏風、襖絵、掛け軸の揮毫は、明治期の書家・巌谷 一六(いわや いちろく)や昭和初期の日本画家・ 菱畝(せんだ りょうほ)などの作品が多く、著名な文人墨客がここに逗留し、泰蔵と美酒を酌み交わした返礼と察せられます。
泰蔵の人となりには、彼より100年前に増毛でのし上がった伝兵衛が重なります。もしかして泰蔵は、立志伝中の先達となっていた伝兵衛の生きざまに憧れていたのでしょうか。
瓦一枚、柱一本にまで贅を尽くした「マルにイチ」の本間家の家紋には、泰蔵の徳が顕れているかのようです。
そんな泰蔵からニシン漁のヤン衆までも崇めたのが、海神を奉る「増毛厳島神社」です。創建260年を経た町の有形文化財で、元来は村山 伝兵衛の氏神“弁天社”でした。ここへ江戸中期の文化年間(1804~1818)に、安芸(現在の広島県)の厳島神社から分霊を賜り、社名を改めました。
社殿には、狩野派の狩野 勝玉(かのう しょうぎょく)による荘重な天井絵が描かれています。また、道内随一の木彫や絵馬を飾り、かつて増毛の浜でニシン漁が始まった頃を描いたとされる地曳き網の絵柄には、入植者の多さが見て取れます。
重厚な本殿は総檜造りで、明治33年(1900)から2年間、新潟県柏崎市からやって来た宮大工たちによって精緻な彫刻がほどこされました。また吹雪と大雪を避けるため、本殿全体は社屋に覆われ、増毛と良く似た環境の柏崎の宮大工を招いた意図が窺えます。
この増毛厳島神社で、取材班は思いがけない偉人の墨筆と出会いました。
雄々しく実直な“忠魂碑”の揮毫の下には、「希典書」の署名が見えます。筆者の記憶によると日露戦争の英雄・乃木 希典(のぎ まれすけ) 大将の筆致にちがいありません。
はて、なにゆえ最果ての増毛町と乃木大将がつながっているのか。そのきっかけを知り、2世紀以上も道北の発展を牽引してきた増毛町の横顔に驚くばかりです。
幕末の嘉永年間(1848~1854)頃、日本近海には開国を迫る欧米列強の船団が出現し、特に江戸では浦賀沖に襲来したペリーの黒船の噂で持ち切りでした。ところが、蝦夷の松前藩から東北地方にかけても、たびたびロシア帝国の船に脅かされていたのです。公儀は、これに処すべく、松前藩のみならず、南部藩(津軽)、佐竹藩(秋田)にも命じて、蝦夷地の日本海沿岸を警備させ、砲台を築かせます。増毛町の海を見下ろす現在の灯台付近にも、幕末にはロシア帝国の軍艦を監視、撃退するための砲台場が設けられました。
そのほど近い場所に、増毛厳島神社が所蔵する乃木大将の“忠魂碑”の書が、石碑となって佇んでいるのです。実は、乃木大将が勇名を馳せた明治37年(1904)勃発の日露戦争には、旭川に配備された陸軍第七師団から多くの兵士が動員され、増毛町で徴兵された若者も壮烈な戦死を遂げています。
殉死者を慰霊するこの石碑の建立と乃木大将みずからの揮毫を実現させたのは、ほかならぬ本間 泰蔵でした。そして、この時の泰蔵と乃木大将のえにしから、銘酒「国稀」の銘柄は生まれたと言っても過言ではありませんが、詳細については歴史背景の編で紐解くことにしましょう。
さて、最盛期はニシン漁を主として15000人が暮らした増毛町ですが、現在は高齢化によって漁業後継者は減少の一途をたどり、地場産業の低下に危機感を持っています。
その一方で、道内から毎年多くの観光客が訪れ、国稀酒造(株)へ立ち寄る来客数も13万人に及んでいます。札幌や函館、旭川などの観光地とは異なる、ありのままの増毛町の希少価値が、改めて脚光を浴びているのです。
美味の宝庫である日本海だけでなく、増毛町の背稜に聳える暑寒別岳(しょかんべつだけ)も、知る人ぞ知る日本百名山です。冬は穴場に精通するスキー客が集い、春から秋には残雪を残す稜線が登山者を惹きつけ、高山植物が生い茂る大自然のパノラマを繰り広げます。
わけても、深い山麓から染み出す雪解けの地下水は増毛町を潤し、もちろん銘酒「国稀」を醸す伏流水にもなっています。蔵元の門前に湧く井戸には、ペットボトルを手にする行列ができる日もあるほどです。
そして、昭和初期の港町らしさが交錯する街並みも、道産子を誘ってやみません。
ノスタルジックな旧・増毛小学校は昭和11年(1936)に竣工し、平成23年(2011)に閉鎖されるまで75年間使われた、道内最古の木造校舎でした。かつて多くの漁師の子どもたちが学んで歓声の響いていた校庭は、ひっそりと静まっています。それでも、この憧憬には現代人の誰もが足を止め、幼き日々を振り返り、ひと時の安らぎを憶えるにちがいありません。
朽ちかけた校舎のガラス窓ですが、取材班の耳にはオルガンの音やにぎやかな歌声が今にも聞こえてきそうです。
小学校からの旧坂を下れば、そこは映画やテレビドラマのロケにも使われるスポット。昭和56年(1981)に公開された不朽の名作映画「駅 ステーション」では、撮影シーンの多くが増毛町でセッティングされました。
主人公の刑事と居酒屋の女将が情を結ぶ「風待食堂」と名付けられた店には、“ふるさと歴史通り”の一画にある多田商店が使われました。さらに、主人公の実家は国稀酒造(株)の母屋座敷に設定され、哀愁と人情を描くスクリーンにふさわしい舞台となりました。
JR留萌線の終着である増毛駅は、単線の寂れたホームや駅舎が、まさに映画のイメージそのものです。留萌線は大正11年(1922)に増毛まで開通していますが、残念ながらこの駅舎は近い日に廃止されることになりそうです。
それでも、映画ファンのシルバー世代は足しげく増毛へ通って来ることでしょう。銘酒「国稀」の評判は、彼らの口コミによるものなのです。
そして、極上の蝦夷バフンウニや大きなミズダコ、活きて跳ねている甘エビなど、増毛町には超絶品の食材が揃っています。近年は稚魚の放流によってニシン漁も再び活況し、銘酒「国稀」と舌鼓を打ってみたくなるのは筆者だけではないでしょう。
とりわけ、地元で愛飲される上撰「国稀」のうまさは、いわゆる吟醸造りや無濾過生原酒といった流行りの酒と一線を画し、「本来の日本酒の美味しさとは、かくあるべき!」と語るかのようです。
増毛で呱々の声を上げ、増毛の港文化と育ち、増毛を愛する人たちに醸された美禄。
その味わいだけでなく、開拓者の矜持を変わることなく醸し続けてきた最北の酒「国稀」の物語を始めることとしましょう。