広島酒文化の振興、大吟醸酒のさきがけ
賀茂鶴酒造株式会社は、日本で大吟醸酒をさきがけて商品化した蔵元です。
昭和33年(1958)の発売以来、本物志向の日本酒ファンを魅了し続け、今も変わらぬ人気を誇る大吟醸「特製ゴールド賀茂鶴」のラベルには、たおやかな筆致の富士山と二羽の鶴が描かれています。
秀麗なその構図は、実は一幅の水墨画から使われています。
明治6年9月9日(重陽の日)天皇家を奉りつつ菊酒を祝う記念日に、時の当主・木村和平は酒銘「賀茂鶴」を命名しました。
しかし、いまだ情報伝達は口づて、地方新聞すらも誕生していない時代にブランドを考案した和平。その根拠を考えれば考えるほど、彼の先見の明に驚嘆せざるを得ません。
当時、明治新政府は地租改正による徴税で歳入を図っていましたが、これが徐々に全国的な失策を招き、酒税による財源確保へと方向を修正します。
つまりは国家が酒造業の振興、日本酒の需要と供給拡大へ注力していくことを、和平はすでに洞察していたのでしょう。
明治10年(1877)を過ぎると、酒の需要は増え、造石税も引き上げられました。
正鵠を射た銘酒・賀茂鶴は、国策に呼応するかのように酒造技術を研鑽していきます。次々に醸造蔵を増設、市場も西条町周辺から賀茂郡全域へと広げていきます。
そして明治23年(1890)第1回貴族院多額納税者議員の互選会が広島県庁で開かれた時、広島県下の有資格者15名の中に、和平は酒造業者としてただ一人選ばれました。
折りしもこの年、第1回広島県賀茂郡酒類品評会が開催され、賀茂鶴はみごとに第1位を受賞したのです。
明治27年(1894)山陽鉄道(現JR)が開通するや、賀茂鶴酒造は関西や東京方面への出荷を本格化し、中国地方での第1回品評会でも第1位を獲得。翌年には先駆けたブランド戦略を本格化すべく、酒造業で最初に新聞広告を打ち出しました。
時代の波に乗った賀茂鶴は、就航したばかりの外国航路でハワイ、台湾、アメリカ本土へも出荷され、「酒王 賀茂鶴」の冠銘を欲しいままにしていきます。
この時期の大躍進をなした人物が、賀茂鶴酒造中興の賢哲と称賛される木村 静彦でした。
明治25年(1892)に和平の後継者となった静彦は、呉の医者の家から養子縁組した人物です。
明治期後半の賀茂鶴は第1回広島県酒類品評会の1等賞、フランス・パリでの万国大博覧会名誉大賞などを皮切りに燦然たる栄誉を獲得し続け、静彦の功績を数え上げれば枚挙にいとまがありません。
また大蔵省醸造試験場が誕生し、その主管醸造協会主催の第2回全国清酒品評会では、最高位である優等賞を受賞しました。
静彦は同じ町内にある機械製作会社へ依頼し、今日の高精米機の草分けとなる最新鋭設備を開発させ、1898年(明治31年)日本で最初の動力精米機を導入します。
余談ながら、今日、その精米機を製作した会社は精米機メーカーとなり、業界トップにあるのは、静彦の腐心と挑戦の成果と言っても差し支えないでしょう。更に昭和5年(1930)には紺綬(褒)章を受章しています。
この時から、静彦はこの精米機を用いて現代の主流である吟醸造りをすでに始めていたのです。それは吟醸物と呼ばれ、当時としては驚異的な精歩合75%の白米で、賀茂鶴独自の美酒としてさらに一世風靡していきます。
そんな先達の静彦が、現代の日本業界全体にもたらしている二つの偉業を紹介しましょう。
まずは広島酒の発展と品質向上に尽力し、軟水仕込みの旨い酒を灘の酒、伏見の酒に匹敵する美酒として全国に普及させました。
数多の問題を抱えていた軟水仕込みの酒を麹造りによって解決したのは、安芸津酒屋の筆頭である三浦 仙三郎と広島県立醸造試験場長で一級の科学者であった橋爪 陽でした。
木村 静彦はこの二人の傑物と胸襟を開き合い、酒質向上のための研究に邁進します。
ようやく軟水による醸造法が成功するや、静彦は賀茂鶴の知名度と政財界での交流を生かして広島酒を全国区の舞台に登場させるのです。結果、広島は日本の銘醸地としての名声を轟かせます。1917年(大正6年)には、第6回全国清酒品評会において、全国初の名誉賞を受賞しました。
これらの功績によって、静彦は大正11年(1922)に緑綬褒章を受章したのです。また、1926年(大正15年)には、第10回全国清酒品評会において、全国初の2回目の名誉賞を受賞、更に昭和5年(1930)に紺綬褒章を受賞しました。
そして、今一つは賀茂鶴酒造株式会社の設立でした。
灘、伏見でさえも個人による酒造業がほとんどであった大正7年(1918)、静彦は150万円の大資本を投じ、賀茂鶴酒造株式会社を設立しました。ちなみに当時の東京での出稼ぎ者の月給は約3円ですから、この金額の大きさが推し量れます。
家業から社業へと成長することで地元を発展させ、さらに酒造業界を牽引し、ひいては国家へ貢献しようとする。これも静彦ならでは男のロマンだったのでしょう。
そして賀茂鶴命名50周年迎えた大正12年(1923)には、第5番目の醸造蔵を新築するに至ったのです。
満州事変の勃発によって戦時色が深まる中、昭和10年(1935)賀茂鶴酒造株式会社の第二代社長に静彦の甥である佐々木英夫が就任します。
呉市出身の英夫は学究肌の賢人で、東京帝国大学法学部を卒業すると、内務省官吏、海軍大学教授、海軍省参事官などを歴任しました。さらに呉市長を務めた後、叔父・静彦からのたっての願いを受け、16年間にわたって経営を担います。この間、賀茂鶴酒造の醸造蔵は7蔵まで増えています。
英夫が手腕を揮った時代は戦時統制下での配給制が敷かれていましたが、全国の酒造業が汲々とする中で賀茂鶴酒造には大命が課せられました。
それは、台湾や満州へ送る軍用酒の醸造でした。理由としては、賀茂鶴酒造の操業する西条町が日本最大級の軍港・呉に近接していたこと。銘酒・賀茂鶴が大正年間から昭和初期まで連続して品評会において優秀な成績を獲得している酒であったこと。そして、経営者の英夫が、海軍省の元エリートであったことも上げられるでしょう。
ちなみに、あの戦艦大和には兵員用の酒として「賀茂鶴純米吟醸」が積み込まれていました。日本海軍が誇る至宝の旗艦には、やはり日本最高の酒が用意されていたのです。
戦後復興が始まり酒造業が再生する中、多くの著名人から愛飲され、称賛される賀茂鶴は、昭和30年代の神武景気・岩戸景気を経て清酒業界の復活をリードしていきます。
地元・広島県出身の池田 勇人 内閣総理大臣は絶大なファンの一人であり、生涯にわたって銘酒・賀茂鶴を国内・海外へ広く推薦しました。
昭和30年代に入ると、清酒需要はようやく伸び始めます。この機に満を持して登場した究極の賀茂鶴が、冒頭に紹介した大吟醸「特製ゴールド賀茂鶴」でした(当時は"大吟造")。
三増酒がひしめく時代に登場した大吟造を求める人は、極めて少なかったようです。しかし混沌とする時代にこそ、本物の日本酒によって日本人が日本の心を取り戻すことが必要であると賀茂鶴酒造は考えたのです。
その核心は今日も賀茂鶴酒造が繰り返し自問自答し続けているテーマで、神々しき日本への温故知新にあるようです。
神やどる蔵、天恵のしずく、ことほぎの酒……幻の酒ブームの終焉を経て、さまざまなアルコール類が飽和する現代ですが、今一度、賀茂鶴酒造は日本の酒造りを司る者としての魂と無垢なる姿を、あらためて追求し始めています。
酒都・西条と広島酒を生み出し、日本酒の隆盛を支え続け、日本の文化の原点を見つめ続ける賀茂鶴酒造株式会社。その崇高な哲理は、これからも変わることなく醸されていくことでしょう。