あるべき本来の姿へ!備前の酒屋へ回帰した、名門・花房家の血脈
小高い山や桃畑など、のどかな田園風景を背にする室町酒造株式会社。その向かいには、蔵元・花房家の屋敷が佇んでいます。重厚な瓦屋根と漆喰壁の母屋は明治初期に建てられたもので、格子戸の玄関を一歩入れば、あたかも京都の名料亭と見まがうような座敷が続いていました。
敷居や欄間のしつらえ一つにもこだわり、奥の間の縁側は柱を建てず、純和風の庭園を借景にするという造詣の深さ。かつての当主の品格を感じさせます。
贅を尽くした空間に、ただただ唖然とするばかり。そんな取材スタッフを迎えてくれたのが、室町酒造の十一代目・花房 満(はなふさみつる)社長です。
「花房家が酒造りを始めたのは、元禄元年(1688)頃としています。それは、池田藩から花房 十右衛門(じゅうえもん)がこの地方の大庄屋を任されていた頃で、余剰米を使って酒造りをしていたのです。その後、れっきとして酒造業に専念したのは幕藩体制の崩壊した明治維新後で、私の四代前・寶吉(ほうきち)の時代です。それ以前の花房家は、地主、金融、酒造などを手がけており、当時の古い酒甕がまだ残っています。さらに遠祖の頃は、備前の土豪の一党だったようです」
花房社長はそう言って、二間の座敷をまたぐほど長い家系図を開けてくれました。
家系図には十数代もの当主とその曰くが記されていますが、中でもおおよそ人物像を理解できるのが、戦国時代頃の花房 正幸(まさゆき)です。花房越後守(はなふさえちごのかみ)と称している正幸は、記録によると、織田 信長の旗下で備前の瀬戸内海近辺や小豆島で海戦に参加したとあり、織田方だった宇喜多氏配下で水軍的な働きをしていたようです。
「当家の始祖はこの正幸の頃で、隣の瀬戸内市にあった虫明(むしあけ)城に入っており、宇喜多家との関係が深かったようです。また赤磐市には正崎、津崎、穂崎などの地名が残っていますが、それは、この周辺が海に近かった証しなのです。ですから、当家の先祖は海に面した平野で、半農半漁をしつつ代々暮らしていたのだと思います」
その後も当主たちの功績が認められ、徐々に領地を広げて、この赤磐地域を与る身分になったのでしょうねと、花房社長は語ります。
ちなみに、赤磐市内には清流・吉井川が蛇行していますが、その流れは悠久の時代から中国山地の豊かな滋養分をこの地に運び、肥沃なデルタ地帯を生み出しました。これによって、備前では大和朝廷期から平安時代まで皇族・貴族の荘園が数多く領されていました。
しかし、平安末期には備前においても荘園が崩壊し、そのきっかけは、国人・地侍と称される地元農民の頭領格が収穫の既得権のために跳梁跋扈したためでした。その一人が、花房家の遠祖だったのでしょう。
その後の当主が宇喜多 秀家に禄300石扶持で仕えたと記録にあり、時代的には慶長初期(1595)頃と推察できます。しかし、江戸開幕とともに豊臣方だった宇喜多家は断絶しましたから、必然、花房家の当主は刀を置き、帰農することになったのでしょう。
「江戸時代、備前一帯は池田藩の所領に変わりましたが、豊かな作地の赤磐地方は天領とされ、幕府直轄の代官所が置かれました。花房家は代々地元の長として信服されていたので、幕府から在郷の庄屋としての任を与えられたのです。その辺りの話しは、私の姉が解説します。実は、私は近郷の家から後継者として花房家に婿入りしています。ですから、当家の系譜については直系の姉の方が詳しいと思います」
そう言って花房社長が紹介してくれたのが、室町酒造株式会社の花房 加代子(はなふさかよこ)常務取締役です。
12歳頃までこの屋敷で暮らしていたという花房常務は、祖父や祖母からさまざまな逸話を聞かされたそうですが、その一つに、天保年間に花房家が池田藩へ金を貸した経緯があります。
「天保年間(1830~1844)のことですが、当時は藩の財政が貧窮していて、相当な金額をお貸ししたそうです。ここに飾ってあるのはその返済の約束状ですが、祖母から伝え聞いたところでは、年号が変わったか蔵主が変わった際に書き改めた物のようです。
利息の支払いについて記してありますが、藩には現金が無いので、蓄えていた年貢米で返済していたのです。そのお米を使って、当主は酒造りを始めたようですね」
花房 常務が紹介する色褪せた書面には、“天保”の年号、“金 百八拾俵”の表記が達筆で書かれていました。
明治時代の始まりとともに、花房家は地主として赤磐の地を守りながら、蔵元としての生業に専念していきます。
酒屋としての初代は、花房卯衛門(うえもん/文政2年頃)ですが、人物像がはっきりと浮かんでくるのは、七代目の花房 寶吉(ほうきち)の頃からです。彼は幕末から明治時代を生きた人物で、村長や県議などの要職も務めました。備前の名門に育った寶吉は地の酒造りへ尽力し、その比類なき品質と味わいが評判となり、明治28年(1891)の全国酒類製造石数番付によると、花房家は1,577石を醸造する“千石酒屋”に発展しています。
この頃には、分家筋も酒商いを手がけたため、花房本家酒造と名乗ります。
「この家屋や土蔵は、寶吉の代に建てられました。その頃の棟と敷地は現在の数倍規模ですが、たった二人の寺社大工が10年をかけて建てたそうです。広い屋敷に一族で住まい、ともに酒造業を商い、暮らしていたのでしょうね。実際、私が幼い頃も、お節句や慶弔ごとの際には親族や奉公人がこの座敷に勢揃いしていました。昔から、和を大切にする家族的な社風……と言うと聞こえは良いのですが、当家の家訓は“働かざるもの食うべからず”や“立ってるものは、子どもでも使え”なんです(笑)」
笑顔でそう語る、花房常務。余談ですが、常務はこの家訓をしっかり継承して、若い社員に教育、躾をしている“肝っ玉母さん”的存在なのだそうです。
さて、室町酒造の中興をなしたのが、寶吉の嫡男・卯一郎(ういちろう)です。明治3年(1870)に誕生した彼は、昭和初期までに数々の偉業と革新を成し遂げています。
明治半ば、花房本家酒造の造る銘酒は「敬花(けいか)」が中心でした。地元の山肌から湧き出す伏流水と赤磐の米を使った手造りの酒・敬花は、岡山県内の清酒品評会で優等賞を連続して獲得し、全国清酒品評会でも重賞を重ねました。その栄光を語るタペストリーやフラッグは、現在も大切に保管されています。
また、現在の室町酒造の冠たる名を掲げる銘酒「室町」も、この卯一郎の時代に生まれています。
「銘酒・室町は、三越百貨店様の手印(プライベートブランド)の酒だったのです。三越百貨店様の本店は、江戸時代から老舗が軒を連ねる東京都日本橋の室町にありますが、卯一郎の酒が次々と受賞・評価されて、それを聞いた三越百貨店様がある問屋様を通して、地名の室町を銘柄にした酒を当社へご注文下さったのです。ようやく鉄道が全国に延伸された時代でしたが、備前の片田舎の地酒を現在の岡山市まで運び、そこから船や貨車で東京へ届けるなど奇跡的な出来事で、卯一郎にしてみれば望外の喜びだったでしょうね」
花房社長の言葉を聞き、数々の受賞記念品を目の当たりにして、思わず筆者の喉が鳴ります。
銘酒・室町は、当時の日本最高峰の商店が全幅の信頼を預けた美酒だったのです。叶う願いであれば、卯一郎の造った室町を飲んでみたいものです。
また、卯一郎は書画や備前焼などの芸術にも造詣が深く、備前出身の書家・犬養 木堂(後の内閣総理大臣・犬養 毅)と親交がありました。木堂は、数度この花房家を訪れたそうで、その証しに、欄間にかかる“楽其自然”の揮毫には、「花房君」の宛名とともに木堂の落款が押されています。
ちなみに、卯一郎と同時代を生きた従兄弟には、当時一世風靡したオッペケペ節の川上 音二郎(かわかみおとじろう)一座に加わっていた、あの名舞台「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の脚本家・花房 柳外(りゅうがい)がいます。
昭和初期になると、蔵元九代目の誉雄(たかお)が卯一郎の遺志を継承します。
太平洋戦時中は統制下におかれ800石まで製造量が低下しますが、先達の功績によって花房本家酒造の酒質は高い評価を受けていたため、操業停止や廃業は免れています。
ところが、昭和20年(1945)の終戦とともに、銘酒・室町をめぐる大事件が巻き起こりました。
戦前までは商標登録制度が厳密でなかったせいもあって、花房家では酒銘の権利を気にかけていなかったのですが、戦後に新商法が施工された途端、一瞬の間隙を突いて、灘の蔵元が「室町」の銘柄を横取りしてしまいます。
むろん、その蔵元は「室町」が戦前まで三越の手印であったことを知った上で、人気を集めようとしたのでしょう。そんなやり方に、激昂と落魄をあらわにした誉雄は裁判も辞さない覚悟でしたが、得意先の問屋からの懇願と宥めもあったため、断腸の思いで「室町」の銘を諦めたのでした。
「この時に“櫻”の一文字を上に付けて、現在の銘柄“櫻室町”が誕生したのです。しかし、祖父はよっぽど悔しかったのでしょうね。その一件が納まると、昭和26年(1951)の株式会社改組の際には、花房本家酒造という名から“室町酒造株式会社”に変更し、新たな船出を決意したのです」
先達が栄誉の酒として育んできた室町をみすみす手放したことに、誉雄の慙愧の念はいかばかりだったかと、筆者は斟酌します。
昭和36年(1961)、誉雄の長男・守が代表取締役に就任し、室町酒造は自社ブランドの酒造りから、未納税(桶売り)酒の蔵元へとシフトしていきます。その理由は、高度経済成長とともに訪れた清酒ブームによって隣の兵庫県の灘酒がヒットし、物流に便利な岡山県下の蔵元の多くが下請けをこなしたためでした。
量産を推進する室町酒造株式会社は、昭和48年(1973)に自社精米工場や最新の製造設備を導入し、約1300石へと業績を伸ばします。そして昭和52年(1977)には、守の妻の実家である生本(いくもと)本家酒造株式会社を合併、その後も下請け率を増やし、昭和61年(1986年)には9000石に迫る勢いでした。
この頃、守はさらなる増産を計画し、15,000石を生産するシステムを構想中でした。
しかし、大手メーカーが製造する普通酒の消費量は刻々と減少し、地酒ブームによって、希少価値の高い地方の吟醸酒の人気が高まっていました。さらに、東京の得意先から「生酒」の注文が入り、初めて櫻室町の“本生酒”が東京市場へデビューし大好評を得たことで、守は製造方針を“備前の酒屋への回帰”に大転換します。
そして平成4年(1992)、すでに後継者として迎えていた花房 満 専務に、次代の舵を委ねたのでした。
「時代ごとに、花房家の主は、さまざまな蔵元のあり方を実現してきました。現在のポリシーである“備前の酒屋への回帰”も、私たちの時代の生き方です。父も祖父も曽祖父も、各々の蔵元としての信念をまっとうしたのでしょう。育んできた伝統と備前らしさを絶やすことなく、ひたむきに営んでいく。それが、花房家の血脈だと思います」
胸を張って述べてくれた花房 常務に続き、花房 社長が「私が受け継いだのは…」とつなぎます。おっと! ここ数年、備前雄町を使った美酒の伝道者として活躍する花房社長には、蔵元ページでじっくりとインタビューすることにしましょう。
備前の地を耕し、治世を支え、民衆を守り続けてきた花房家の系譜。
美酒・櫻室町を生み出す備前雄町米には、その先祖たちの血と汗がしっかりと染み込んでいるにちがいありません。