紀州徳川家の御用達蔵に始まり、十二代360年。一子相伝された、宝玉のごとき酒造り。
「有機雄町米」、「高精白純米吟醸酒」のパイオニアとして知られる玉乃光酒造は、伏見に甍を並べる二十数醸の蔵元の中にあっても、一頭地を抜く「品質第一主義」に徹しています。
創業は延宝元年(1673)。さぞかし長い歴史と伝統に培われたご当地ならではの酒造りと思いきや、初代・中屋六左衛門は紀州・和歌山城下で酒蔵を始めています。
「この延宝元年は過去帳の上では六左衛門の没した年でして、実際の創業は遅くとも1650年頃だったようですね」
十一代目に当たる宇治田 福時(うじた ふくとき)会長は、そう解説してくれました。
二代将軍・徳川秀忠(紀州公)の頃に酒造免許を賜った史実からすれば、相当な御用達蔵だったにちがいありません。爾来、昭和20年(1945)の太平洋戦争終結まで和歌山市街の一等地・寄合町(よりあいまち)で操業を続けました。
ちなみに、明治28年(1895)の全国酒造家石高番付けには、宇治田酒造店の名で2,727石と記されています。さらに終戦後の農地解放の際、十代目・六左衛門が所有していた紀ノ川沿いの農地は、ゆうに130町歩(約40万坪)を超えていたそうです。
いわゆる“肝煎り庄屋”として酒造りを営んできたわけですが、残念ながら、戦時下の和歌山大空襲によって蔵屋敷は灰燼に帰してしまいます。
そして、新たな伏見の地で再生に踏み出すこととなったのです。
和歌山市には往時の町の活気を偲ばせる寄合橋が残っており、そのたもとは米問屋、酒蔵などで賑わっていたと伝えられています。
さて、玉乃光の酒銘は、紀州熊野の速玉(はやたま)大社に帰依した初代・六左衛門が宮司より拝受しました。「主神たるイザナギノミコト・イザナミノミコトの御魂が映える酒」の意味が込められています。
神聖かつ静謐なその名は、幽玄の趣と森羅万象漂う熊野古道の空気をも想わせます。
ありがちな固有名詞と一線を隔す、日本古来の精神的な意味合いがこもる酒銘。そこには、代々の六左衛門(襲名)が抱いた高い理念を察することができます。
中でも明治維新後(1880頃)を担った九代目・六左衛門は、早くから米にこだわった純米酒に着目していました。毎朝、二つの仕込み蔵へ利き猪口を手にして入り、飽くなき品質の追求に努めたそうです。
また、商才にも長けていた九代目は“掛け売り”の酒蔵が増える中、“現金主義”を掲げました。「現金で買ってもらえるならば、その分、少し寸法の大きな酒樽でお売りしましょう」と商談し、玉乃光ファンを増やしていったのです。
当時の酒蔵は、お抱えの桶屋を持っていなければなりませんでした。逆に言えば、オリジナルサイズの樽をいつでも調達できたわけです。
そして、販売店は現在のように免許を必要としないので、誰でも自由に酒蔵と取引ができました。つまりは前向きに商売を考える者同士、お互いのメリットと高い信用関係を得ることができたのです。
「九代目の商才は、現在のデフレ景気下でも非常に教訓になっているんですよ。まさに今こそ、世相に靡かない、流されない、キャッシュ&クオリティーの時代。酒蔵と販売店が肝胆相照らし合わねば、勝ち組には入れません。それを有言実行した九代目のトップダウン経営には、中興の祖たる使命感があったのでしょう」
宇治田会長は感慨をうかがわせつつ、そう語ります。
大正期に人気を博した銘柄「壽泉」も、やはり酒質を吟味厳選した逸品でした。純米酒特有の自然な酸味を醸す玉乃光の酒は、和歌山の名門蔵の地位を不動のものとしていきます。
しかし、昭和に入ると軍国主義が擡頭し、商品市場は閉塞。玉乃光酒造も造石高、酒米の制限を余儀なくされます。そして、昭和20年(1945)7月9日、和歌山市上空を108機のB29爆撃機が襲います。
黒煙燻る玉乃光酒造の焼け跡には、瓦礫の山がうずたかく積もっていました。その廃墟に立ち、再起を誓ったのが、会長・十一代目の宇治田 福時(うじた ふくとき)氏でした。
大正9年(1920)生まれの福時会長は東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、昭和20年(1945)1月、陸軍士官・歩兵小隊長として中国大陸へ出征。戦友たちの屍山血河を目の当たりにしながら銃弾の嵐を駆け抜け、九死に一生を得て復員したのです。
戦後7年間、福時会長は八面六臂のごとく活躍し、昭和27年(1952)伏見の地に酒蔵を立て直します。
とは言っても、父親の十代目・六左衛門は農地解放で田畑を失っていました。旧酒蔵もろとも財産は一切合財焼け焦げ、しかも跡を継いだ福時会長には相続税が課せられます。
つまりは並大抵の努力では成し得ない、裸一貫からの伏見移転だったのです。
昭和24年(1949)には、玉乃光酒造が設立され、業界の発展にも精力的に取り組みます。
昭和39年(1964)には、アルコール、ブドウ糖、防腐剤を入れない「無添加純米清酒」を開発。当時の常識だった三増酒(さんぞうしゅ)を根底からくつがえす、業界と袂を分かつような決断でした。
これが、本物の味を求める日本酒愛好家に共感され、一躍脚光を浴びます。「二日酔いしません」の玉乃光キャッチフレーズは、この時すでに生まれていたのです。
昭和50年代の特定名称酒ブーム期、玉乃光酒造はすでに揺るぎない評価を得ていました。と言うのも、昭和44年(1969)からは自社の酒をふんだんに提供できる直営店「玉乃光酒蔵」を展開し、首都圏の顧客ニーズをしっかりと掴んでいたのです。
市場のみならず、直営店の手応えからも、新たな消費者嗜好が見えていました。そして、「本物の純米吟醸酒」と「よい酒づくりは、よい酒米づくりから」をスローガンに掲げ、“備前雄町米”の復活・普及に注力します。
“有機肥料を100%使った栽培農家と特定契約することで、相互の認識、価値観と信頼を高めていく”。それは、前述の九代目・六左衛門から十一代目の福時会長に変わることなく受け継がれている“玉乃光イズム”なのです。
現在、日本酒業界は斜陽していると言われますが、玉乃光酒造の理念を聴く限り、そのきざしは見えません。
宇治田会長は、いち早く海外に視野を向け、グローバルなマーケット戦略を展開しています。これも、昭和46年に(1971)に立ち上げた玉乃光ファンの集い「夢天下会(むてんかかい)」の成果だそうです。
ちなみに「夢天下会=無添加会=天下を夢する、無添加の美酒の会」と解するそうです。なるほど、飲むほどに、酔うほどに盃を重ねる味わいは、世界の健啖家にも通じるのでしょう。
本物の生産者と育む、最高級の酒米。そして、伏見の名水。
純米酒にこだわり、吟味し、酒蔵としての誇りと威信を貫いてきた玉乃光酒造。
新たな酒文化、食文化の交錯する21世紀においても、その品質はまさに玉と光り、輝くことでしょう。