徹底した原料米の吟味と処理こそ、”うまい酒”への第一歩
酒造りでは、「1麹、2もと、3造り」と言われていますが、萬屋醸造店の田中 浩 杜氏は“原料米処理”、つまり蒸米の吸水具合いに、最も神経をとがらせると言います。
「良い酒を造るためには、良い麹が必要です。その麹を造るためには、良い蒸米が必要。だから私は蒸米に、その吸水具合いに一番気を使うのですよ」
同社では純米酒が多いため(全量の79%)、吟醸酒なみの原料処理をしなければならない事情も影響しているそうです。
確かに、精米した米の種類によって洗う時間や浸すタイミングなどは異なり、さらに精米歩合が変われば、秒単位での作業となるのは酒造りの必定。純米主義の蔵元だけに、手練の技が、田中杜氏には求められるわけです。
田中杜氏は地元出身の、いわゆる“諏訪杜氏”。
その流派では、一般的に山田錦や美山錦のような硬い米を好むそうですが、萬屋醸造店が力を入れる玉 栄は、どちらかというと柔らかい米です。
おそらく、田中杜氏にとって当初の玉栄は難物であったのでしょうが、さすが酒の匠として45年以上の経験ともなれば、どんな米であっても最適な原料処理をこなすというわけです。
ところで、その玉栄ですが、意外に芯白が大きく、45%や35%といった高い精米歩合は極めて難しいのだそうです。
このため同社の純米大吟醸は山田錦を使用していますが、「この土地で山田錦を栽培するといった、難しいことは考えていません」と田中杜氏は答えます。
山田錦は基本的に温暖な瀬戸内など、関西以西での生育に適しています。現在の北限も静岡県で、寒冷地には不向き。したがって、冷涼な山里である増穂町は、条件的に不利と推察されます。
それよりは玉 栄を使った純米酒の質の向上が、“個性ある地酒造り”を目指す蔵元の要請にも合致する、と田中杜氏は考えているのです。
また玉栄は柔らかいだけにモロミに溶けやすく、そのため酒がダレてしまう危険があると言います。外気温が高い時などは、より緻密な作業が求められてきます。
例えば、外気が11℃のときに8℃で仕込むような場合、タンクに10の水を入れるとすると、減量 した水に同じ水で造った氷を入れて、10になるよう調整したりします。もちろん、同社にはそのための製氷機も備わっています。
次に、原料処理からモロミの仕込みまで、銘酒「春鶯囀」に欠くことのできない仕込み水について訊ねてみました。
「標高2,000mを誇る櫛形山からの、豊富な伏流水を汲み上げています。酒造りに適した中軟水で、穏やかに醸すことができます。この水とは別 に、昭和54年(1979)に大手百貨店との取引で誕生した、当時としては珍しい純米酒“富嶽(ふがく)”の水だけは、現在でもトラックで片道1時間半をかけて、富士吉田市にある“富士浅間神社”まで湧き水を求めに走ります」
つまりは“御神水”なのですが、どうしてそこまでして?との問いには「山梨といえば富士山。その富士にちなんだ酒を造ろうということで、富士の湧き水を使用することにしたのです」と答えが返ってきました。
地元の水と地元の米、さらに地元の人による“地産地消”の酒を極めた一本というわけです。
さて、田中杜氏は昨今の酒について「美味しさや旨さという点で、どこか欠けているように思います」と語り、「それは単にアルコール飲料を造っているだけのようなもので、造り手の良心が伝わってきません」と嘆きます。
彼は「あくまで飲み飽きしないお酒を」との思いが強きますが、これがため、香りが強く立つような酒については「最初の1~2杯はいけますが、必ず、飲み飽きしますよ」と苦言を呈しています。
飽きずに飲んでもらえる酒造り、長く付き合ってもらえる酒造り、それが田中杜氏の理想です。そうした酒造り哲学は、田中杜氏の趣味であるマラソンに似通 っているとも言えそうです。
酒造り40年、マラソン歴も40年。フルマラソンのベストタイムが2時間42分という田中杜氏にとっては、両者の核となる心は、きっと同じなのでしょう。