甲斐の原風景に抱かれ、文人墨客が酔いしれた美酒「春鶯囀」
雄大な裾野に広がる、緑濃い樹海。陽が昇れば、まばゆいコントラストを描き出す山頂の冠雪。
この富士山を目の当たりにすれば、誰しも、太古のままの日本の原風景を思い描くことでしょう。
白い稜線を背景にして、美しいアーチに囲まれる山梨県南巨摩郡増穂町。ここは甲府盆地の西南に位 置し、西には赤石山系の櫛形山や丸山など、2000mクラスの巨摩山地がそびえています。
その山間に源を発する戸川、利根川は、増穂町を西から東へと走り、やがて富士川へと注ぎ込みながら、手つかずの自然美を構成しています。
中でも高下(たかおり)の町は、冬至から元旦頃、富士山頂にかかる“日の出”が見られ、その絶景は「ダイヤモンド富士」と讃えられています。高下は「日出ずる里」と呼ばれ、年末年始には、多くのカメラマンが鈴なりになってシャッターチャンスを狙うのです。
美しい眺望は、関東の“富士見百景”にも数えられています。
ちなみに、ダイヤモンド富士の眺望でメインスポットになっている「高村光太郎文学碑」には「うつくしきものミ(満)つ」と、彼の直筆で書かれています。
この“うつくしきものミつ”とは、美しいものが3つ存在するという意味。一つ目は富士山。二つ目は柚子の実。そして三つ目は、ここに暮らす人の心の清らかさだと言っています。高村 光太郎がこの地を訪れたのは、昭和17年(1942)の秋。彼は目前に迫る富士の雄姿に「私は富士の名所を数多く訪ねたけど、こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したそうです。
さて、今回の訪問蔵元「萬屋醸造店」が営む増穂町は、南アルプス巨摩自然公園に指定され、山国の歴史と文化に満ちた町です。
日本の創生期・持統天皇の頃に、小室山(徳栄山妙法寺)が開創され、奈良時代の後期には鷹尾寺(現・氷室神社)も開山。8世紀後半にして、すでに文化的要衝であったことを物語っています。
中世は甲斐の国と呼ばれ、そこでは肥えた土地を求める土豪の小競り合いが、幾度となく繰り返されていました。
その覇権を勝ち取った一族が、「風林火山」の旗印で知られる武田氏です。
緋威しの赤い甲冑が怒涛のように押し寄せると、小県(ちいさがた)と呼ばれた地侍たちは、次々とその配下に下ったのです。
この武田家の始祖で、甲斐源氏の英雄と伝わる人物の墓が増穂町にあります。
妙楽寺跡地に建つ一条忠頼の墓標が、それです。彼は12世紀の治承・寿永の騒乱において活躍した巨頭で、吾妻鑑や源平盛衰記などにその活躍ぶりが記されています。
彼の墓地は、建立後、約800年を経ていて、さざれた石肌を深いしじまの中に映しています。
江戸時代に入ると、甲州(山梨県)と駿府(静岡県)を結ぶ「富士川水運」の拠点として、増穂町は栄えます。また、豊富な木材が伐り出され、富士川の急流を流す筏(いかだ)の泊もそこかしこに置かれていたようです。
その基点となった「青柳河岸」が、明治時代には盛りを極めました。
実は、舟を使うことによって酒造りも栄えたのですが、今回の蔵元「萬屋醸造店」は、当時から操業を続けている老舗なのです。
また水の清らかな町とあって、明治の近代化とともに養蚕が盛んになり、製糸工場なども進出してきましたが、鉄道の敷設や自動車が普及し始めると地場産業は徐々に衰退。昭和に入ると増穂の町は、自然美を湛えた遊山の地の魅力を取り戻します。
当時、この地を一組の夫婦が訪れ、萬屋醸造店の銘酒「春鶯囀(しゅんのうてん)」が誕生します。
その人物こそ女流歌人として一世を風靡した、与謝野 晶子でした。
実は、与謝野 鉄幹・晶子夫妻が増穂町に来訪した際、ある名歌を詠んでいます。
歌詞の中には「春鶯囀」の名言が使われ、ある“えにし”によって、蔵元へと贈られることになりました。ともあれ、そのエピソードは歴史編で紹介することとしましょう。
あたかも春の鶯がさえずるような、清楚でたおやかな味わい。その極上の一盃を口にした夫妻は、以後もこよなく、萬屋醸造店の銘酒を愛飲したそうです。
歌を刻んだ石碑は、増穂町青柳の萬屋醸造店敷地内にあって、今も一般公開されています。
それでは、創業210年を誇る甲斐の名蔵元の物語を、始めることとしましょう。