森の神、川の神・・・・・・四季折々の山紫水明に抱かれた”うまい酒の国”
ひた走る自動車のタイヤが軋むたび道沿いの木曽川は狭まり、紅葉が色を深めていきます。さらに、旧・中山道を北上。つづら折りの峠道を幾つも越え、妻籠宿、上松宿などの一里塚を数えると、細長く開ける「木曽福島」へ到着。ここは、かつて中山道の関所町として栄えました。
仰ぎ見る木曽駒の山々は、今が盛りと紅や黄色に彩られています。
風の匂い、水の輝き、朽ち葉の舞い、切り妻と出格子の佇まい……タイムスリップしたような、懐かしい光景がそこかしこに揺れていました。
木曽路はすべて山の中である。
木曽川の清らかな流れに臨むと、傍らに島崎藤村の小説「夜明け前」の一節が刻まれていました。彼は、木曽路ゆかりの文豪です。
その言葉どおり、この地は晩秋の山紫水明を映しつつ、取材班を迎えてくれたのです。
さて、“木曽”と聞いて思い浮かべるのが、武士の始祖とも言える「木曾 義仲(きそよしなか)」でしょう。
源平合戦で鬼神のごとく勝利を上げ、天皇から征夷大将軍を拝しながら、ついには源頼朝(みなもとのよりとも)に討たれた人物です。
その血統は、れっきとした源氏一族。父親は源義賢(みなもとのよしかた)でした。
義仲は、仁平4年(1154)に武蔵国大蔵(むさしのくにおおくら/現在の埼玉県)で誕生し、幼名は駒王丸(こまおうまる)。
義仲2歳の時、年嵩の従兄弟・悪源太 義平(あくげんたよしひら)が勢力拡大を狙って、義賢の館を襲いました。義賢や一族郎党のほとんどが戦死し、奇跡的に難を逃れた義仲は、この木曽福島の地に暮らす土豪・中原兼遠(なかはらかねとお)に預けられます。
治承4年(1180)26歳になった義仲は、平家との雌雄を決すべく千騎をもって挙兵します。以後、横田河原の戦い(長野市篠ノ井)、般若野の戦い(富山県)、加賀の国(石川県)倶利伽羅峠の戦いなどを勝ち続け、元歴元年(1184)に“旭将軍(あさひしょうぐん)”として天皇の詔を賜りました。
これが頼朝と袂を分かつ原因となり、同年の内に義仲は北近江(現在の滋賀県北部)で討ち取られたのです。
しかし、その後も木曾一族はこの山国に存続します。戦国時代には、甲斐・武田家と尾張・織田家の臣下を頻繁に入れ替わりました。
義仲から19代目となる木曾義昌(きそよしまさ)は、天正10年(1582)織田勢として、木曽に侵入した武田勝頼を撃破。義昌は織田信長から深志城(後の松本城)を与えられ、筑摩地方・安曇地方の領主として君臨します。
信長没後は領地確保のために近隣の徳川家康と結びますが、豊臣秀吉の誘いもあって小牧山の戦いでは、寝返りを余儀なくされました。
秀吉天下となって数年は安泰でしたが、天正18年(1590)北条氏征伐の小田原城攻めに嫡男・義利を代理としたことで秀吉の怒りを買い、下総国網戸(現在の千葉県)に移封されます。
そして文禄4年(1595)、義昌は故郷に帰ることなく世を去り、木曾家は義利の時に廃絶されたのです。
木曽福島町の中心部にある名刹「興禅寺」は、義仲始めとする木曾家の菩提寺として累代の御霊を祀っています。
ご存知の通り、木曽一帯は銘木の産地として知られています。
古くより木曽川を下る筏は数知れず、その豊富な木材を財源にする者を防ぐため、江戸幕府は“直轄地”として代官を置き、その後、尾張徳川藩が領地にしました。
現在も木曽福島町の旧・中山道には、往時の御触書を立てた“高札場(こうさつば)”が残されています。
幕府は街道の要衝として木曽川沿いの急峻な崖に関所を設け、“入り鉄砲”“出女”を厳しく監視しました。
「福島関所」では女性の一人旅や連れ添いを念入りに検め、手形証文の照合も二重三重の策を施し、無事通行するには2時間を要したそうです。
「関所資料館」は往時の雰囲気をそのまま留め、保管されている手形や文書を目にしていると、長蛇の列をなす旅人のざわめきが聴こえてくるようです。足止めを食った人々のために、かつて福島宿には1000戸もの宿が軒を連ねたとか。
この“代官”と“関所番”を徳川幕府から任ぜられたのが、木曾家の旧臣・山村氏でした。
関ヶ原合戦で家康に忠義した山村良候(やまむらよしとき)は木曽地方の支配を命じられ、以後幕末まで260年、代々その重責を与かりました。一部だけ残っているものの、広大な「山村代官屋敷跡」からは、直参旗本級の身分をうかがい知ることができます。
関所跡から、落葉滑る川を眼下に歩けば、ほどなく「高瀬家」にたどり着きます。
この高瀬家は、島崎藤村の小説「家」の舞台となった名家。藤村の慕う姉・園(その)が高瀬家の14代目・薫(かおる)に嫁いだことから、数々の小説のモティーフになっています。
敷地内に建つ資料館には、高瀬家の歴代当主が代官・山村氏の臣下であった頃の文献や薬種屋としての足跡、そして藤村直筆の手紙(差出人は、本名・島崎寿樹)や高瀬家の人たちと撮った写真などが展示されています。
この資料館は高瀬家の母屋でしたが、残念ながら昭和2年(1927)の“木曽福島の大火”によって、古い町並みとともに焼失しました。
界隈の桧皮葺の棟々は、木曽駒の高嶺下ろしに煽られ、紅蓮の炎に舐めつくされたと伝わっています。
今となっては、藤村の作品だけがノスタルジックな町の面影を偲ばせてくれます。
旅人にとって木曽福島は“面倒な関所の町”でしたが、半面、心待ちにしている楽しみもありました。
ひとつは、今も瑞々しい姿を見せる“権現滝(ごんげんだき)”。この滝の歴史は古く、木曾義仲が平家追討の兵を挙げた際に、祈祷・水行したと伝わっています。
四季折々に移ろう鮮やかな水辺のシーンは、悠久の時代を経ても旅人の心を魅了してやみません。
木曽11宿をつなぎながらの中山道……、長い旅には七回笑うくらいの“うまい酒”が必要だったのかも知れません。
取材班も遥かな時をさかのぼりつつ、酒蔵の似合う町・木曽福島に宿り、銘酒「七笑」をかたむけることにしましょう。