創業4世紀におよぶ老舗の風格、米沢藩・上杉家が嗜んだ美酒「東光」
日本の大河の五指に数えられる最上川は、山形県下をくまなく流れながら日本海へと注ぎます。
豊饒として流れる川の景色を、かつて「奥の細道」の旅でこの地を訪れた松尾芭蕉の名句が、こう語っていました。
五月雨を あつめて早し 最上川
滔々たるその流れの源に位置するのが、米沢市です。国立公園・吾妻連峰の裾野にあって、豊かな自然に恵まれた盆地を広げる広域都市。あの「独眼流政宗」こと、伊達政宗の生誕の地として知られ、また江戸時代には、上杉15万石の瀟洒な城下町として発展してきました。
米沢市内には上杉藩の時代を偲ぶ名所・旧跡がそこかしこに残っていますが、その中でもシンボリックな存在が「上杉神社」です。鬱蒼として緑濃い旧・米沢城跡に建つ社は、上杉 謙信 公を御霊として祀っています。
謙信は天正6年(1578)上越の春日山城において49歳で逝去し、その遺骸に甲冑を着けたまま甕に密閉され、城内墓所に納められたそうです。
謙信の後継者となった二代目・景勝は、豊臣・徳川政権の下、会津からさらに米沢へと転封される際に、この遺骸も移し、米沢城の御堂に納めることにしたのです。
後継者に抜擢され、謙信の薫陶を一身に授かった景勝らしい所作に、上杉武士の忠孝の精神を感じます。
さらに明治時代には、ここに米沢藩中興の名君・上杉 鷹山 公を合祀する運びとになり、「上杉神社」と称することになりますが、謙信の遺骸は、その後、御廟所へと移葬されています。
その「上杉家廟所」には歴代蔵主が祀られ、中央奥に謙信の霊廟、その両側には十二代までの蔵主の廟が凛然として並んでいます。
甲冑を着けたままの謙信の遺骨が、上杉神社からここに移されたのが明治9年(1876)。昭和59年(1984)には、この御廟所が国の重要文化財に指定されています。
そして「春日山林泉寺」も上杉家ゆかりの古刹。ここは上杉家の菩提寺であり、景勝に嫁いだ甲斐の武田信玄の四女である菊姫など、歴代正室の墓が並んでいます。
また、上杉に名臣ありと称えられた直江兼続の墓もあり、香華をたむける人影が絶えません。
兼続は、上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。
越後上田庄の領主であった長尾政景(景勝の父)の家来・樋口兼豊の長男として生まれました。景勝が越後から会津若松に移封された際に米沢城主となり、関ヶ原の敗戦後は、上杉家の米沢移封にともない執政として主家の安泰のために尽くし、米沢城下創設の師とも呼ばれています。
また、国宝宗版史記や漢書などの貴重な文献を集めた知識人でもあり、深い教養と芸能を持っていました。彼の卓抜したセンスによって、現在の城下町米沢の基盤が築かれたと言っても、過言ではないでしょう。
その見識は、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていました。
ところで、近年、暖冬の年は米沢でも降雪はいくらか少なめとのことですが、それでも寒波がやって来れば、たちどころに深い根雪を積み上げます。
そんな雪国・米沢の冬の風物詩となっているのが、毎年2月の第2土・日曜日に松が岬公園一帯で開催される「上杉雪灯籠まつり」です。
数多くの雪灯籠と雪ぼんぼりに明かりが灯ると、その幻想的な世界に、ひと時、誰もが酔いしれるといいます。
その雪灯籠まつりですが、実は今回訪問する酒蔵・株式会社小嶋総本店とは、切っても切れない縁にあります。
と言うのも、同社の先代社長・小嶋 彌左衛門 氏が、友だち数名と雪洞を掘り、ロウソクに火を灯して、雪見酒と洒落込んでいたプライベートな宴が、今では市民挙げての祭りへと発展したからです。
もちろん、この時期になると、小嶋総本店では全社挙げて祭りに協力しています。
酒銘「東光」で知られるこの酒蔵の歴史は古く、上杉景勝が関ヶ原の役後、米沢の地に移封された慶長6年(1601)より、さらに4年を遡ります。
4世紀もの長きにわたって、営々と稼業を守りつづけてきた老舗酒蔵の伝統の酒造り。
上杉家御用達当時の大失態エピソードなども交えながら、じっくりとリポートしていきます。