関ヶ原の戦いを超えて美酒を醸し、425年の年輪を刻む稀有の蔵
朝9時前、株式会社小嶋総本店の事務所に足を踏み入れ、いささか驚きました。
三和土の左側には、スチール机にパソコンの並んだ何の変哲もない事務所風景が覗いていますが、その右側には一段高い20畳ほどの居間があって、年月を刻んだ囲炉裏が現役で使われていました。
取材スタッフは、まず、この囲炉裏端に案内されました。
鴨居を見上げると、先々代の遺影と並んで、上杉家十代蔵主・鷹山公の肖像画まで掲げられています。
さて、小嶋 彌左衛門 会長との挨拶を済ませ、今日これからの取材スケジュールを打ち合わせていると、いかにも物腰の柔らかな奥様が、お茶と煎餅を運んで下さいました。
「この地方では朝一番にお煎餅を食べると、その日を幸せな気分で暮らせると申します。ですから、もし、よろしければ……」
願掛けのように上杉神社へ参拝するよりも、こうした持て成しを受けることのほうが、よほどありがたいものです。
のっけから、取材スタッフは米沢ファンになってしまいました。
余談はさておき、慶長2年(1597)といいますから、関ヶ原の戦いの3年前です。ちょ うど425年も昔のことですが、今まさに取材しているこの場所(酒蔵事務所)で、小嶋総本店は酒造りを始めています。
その創業者は、小嶋 彌左衛門 。爾来、二十三代にわたり、連綿としてこの地で蔵元を 継承してきました。
ところで米沢といえば、すぐにも上杉家が想起されるのですが、この小嶋総本店はその上杉藩の御用酒屋でもありました。実は、こんな逸話が、残っています。
江戸中期のことですが、ある年の暮れに、藩に納める年末年始のお酒が間に合わず、小嶋家は閉門蟄居という重い罪科を受けることになってしまいました。
このため家紋にも×印が付され、以来、小嶋総本店では謹慎の意味も込めて、正月の松飾りを自粛する習わしが残ったそうです。
それは今日も踏襲され、正月には門松ひとつも飾らないそうです。
いかに当時の「御前酒」が大儀な存在であったかを、実感します。
江戸期はまた、禁酒令が頻繁に出されたことでも知られますが(当時、米は貴重品であり、飢饉のたびに禁酒令が出た)、それでも小嶋家は、酒造りを許された数少ない蔵元の一つでした。
明治時代には、政府の酒造免許の増発によって造り酒屋が増え、そのため酒販店同士の競合を防ごうと、蔵元たちも酒にブランドをつける必要に迫られたそうです。 小嶋総本店でも、特上酒に「日本響」、上酒に「東光正宗」、普通酒に「千代鶴」「白鷹」「米祝」「白梅」など、さまざまな名前を冠したそうですが、現在の「東光」の由来については判然としないのだと、現当主の小嶋 彌左衛門 代表取締役会長は言います。
「でも、東光というのは薬師如来と関係があるそうですよ。それにこの仏様は、手に薬壷を持っています。お酒も百薬の長と言われますから、まんざら薬師如来と関係が無くはない。ですから、この東光というブランドは大切にしていきたいのです」と、小嶋会長は語ります。
大正時代には、米沢を2度の大火が襲いました。
最初は、大正6年(1917)。この時、小嶋総本店は延焼をまぬがれたそうですが、投入することになります。しかし翌々年に2度目の大火が襲った時には、同店も資財の多くを焼失し、甚大な被害をこうむったのです。
それからどう立ち直ったのか、詳しいいきさつは不詳としながらも、小嶋会長は「私なら呆然自失、何をどうしていいかも分からなかっただろう」としばらく遠い目をして、ご先祖に思いを馳せているようでした。
ともあれ復旧を果たした店ですが、しかし、またもや難題が降りかかります。太平洋戦争直前の統制経済の強化でした。すなわち、企業整備令によって企業合同を強いられるという局面に追い込まれてしまったのです。
親族会議を開き、夜中まで話し合ったそうですが、どうにかこうにか、企業合同はまぬがれたそうです。戦後、企業合同に参加した多くの蔵が復活することなく消え去ったなかで、同店は幸いにも「東光」ブランドを守り続けることができました。
そして昭和40年代、新酒への切り替え時期の頃ですが、夜8時頃に酔客から電話が掛かってきました。「酒の味が変わった」とのクレームでした。
6時ごろから呑みはじめ、おかしい、おかしいと思いながら、酔った勢いもあって「酒の味が違っている!」と文句をつけてきたのです。
このクレームに、同店はどう対処したのでしょう?
小嶋会長は、「なんとも、ありがたいファンです」と言います。
「こうした東光ファンがいて下さるからこそ、われわれ蔵元は、しっかり酒造りに励まなければと、心底ありがたく感じました」
小嶋総本店が酒の品質向上に力を注いだ経緯は、こうしたエピソードからも窺えます。
柔らかくて、味に幅のある酒。つまり、本来の日本酒らしい、口腔に旨味の広がるような酒造りを目指す小嶋総本店。最上川水系の最上流部に位 置するこの酒蔵は、吾妻山系の清冽な伏流水に恵まれてきました。
その美酒は、大手酒造メーカーの攻勢にも地元シェアを堅実に維持し、そればかりか今や全国ブランドへの飛躍を狙える企業体質を備えるまでに成長しています。
「品質第一で、肩肘張らない酒造りを目指します」
明日への飛躍を期して、小嶋会長は最後にこう締めくくってくれました。